魔人探偵脳噛ネウロ

スタインベックの夜に捧げ

さっと長い間夜に生きてきた獣のみが持ち得る敏捷さと軽やかさで、白刃が月の光に洗われた瞬間にはそれは背後から筑紫の浮いた喉仏の下、窪みに落ちる筋に薄い刃をあてがっていた。「……大人しくしてくれよ、」 つぅと確かに氷の糸が肉に食い込む感触があった、しかし伝う生温かい血の感触はなかった。粘る血の臭いも感じられなかった。薄皮一枚裂けるか否かの力加減ができる、この男――声音の低さからそれが男だと知れた――は相当な手練れだと筑紫は乾いた口咥内を唾で湿らす事も、元より唾をかき集める事も出来ずに、空気を一塊、石を呑み込むように恐る恐る飲み込んだ。蛙に笑われるだろうおっかなびっくりひくついた咽喉は、迸る赤い液体に濡れる事はなかった。
「……貴方は」
一体どこの人間ですか、闘いに負けた犬が許しを乞うように鳴く、掠れて情けない声になり、無様だと切れ端の感情で思った。何て情けない様なんだ。統制の取れない感情を乗せた馬車は筑紫の身の裡を闇雲にただ走り回っている。理性という名の御者は何処かで振り落とされたようだった。
「名乗るほどの組織には生憎属しちゃいないんでね」 男は決まり文句を放ると、おまけをくれた。「飼われるのは性に合わないんだ」 とんでもなく外れのおまけを手渡され、こんなに嬉しくないおまけならその存在も知りたくはなかった。甘い砂糖に包まれた劇薬を、まるで褒美のように口に投げ込まれた気分だった。付け加えられた言葉の方に絶望を垣間見た。
「……少なくとも俺は、貴方の雇い主が思うほど危険な人間ではないと思うんですけどね」 男には何の意味も為さない独白は、実際にべもなく一蹴された。「俺が判断する事じゃないから」 まさしく己の職をよく理解し納得している人間の言葉だった。不揃いな、しかしてそれが当然の高低を押し潰し擦り減らし均し、全く平坦になった声は、猫のように筑紫の項を舐めた。砂を含んだ掠れた声が薄い肌を引っ掻くも、少しばかり吐息に湿り気を感じて場違いに震えた。声音にまで表れる感情の無さは実に徹底されていて、筑紫は再度こんな男をあてがわれるほどに何か拙い事をした記憶はないのだがと思った。男が相当に値の張る人間だろう事は容易に想像がついた。声の位置から自分と同程度に背のある事も想像がついていた。歳もさして変わらないだろう。
「……幾らです、」 助かる事を投げ捨て、顔の見えない相手に向かって問うた。諦めだった。「この仕事、幾らだったんですか」 自分の命の値段を知る事くらいは許されるはずだ、筑紫は無闇に挑発的にならないよう、抑揚を抑えた声で――結局は空っ風の怯えた声にしかならなかったのだが――背後の闇に向かって問うた。
「……値段をつけられるほど上等の人間だと?」 煙草を一回吸うだけの――状況によっては長くも短くも感じられるものだが、しかし今の自分にとっては神経が焦れるくらいには長く感じられた時間だった――沈黙の後、相変わらず抑揚のない声で、男は端的にそれだけ言った。疑問符が最後につけられていても全く意味を為さない言葉など久し振りに聞き、突きつけられたあんまり酷薄な事実に眩暈がした。息を一度だけ深く吸い込み、肺の中を冬の空気で湿らせるに十分な時間溜め込むと、震える唇から細く吐き出した。「――……俺は値段もつけられない、安い人間だという事ですか」
笑いたくもないのに声が笑い膝も笑った。この高揚する気分は一体何だと言うのだろう、震えが過ぎて笑いに転化したような自分でも解らない笑いが込み上げた。全く何だっていうんだ、自分は価値もないのに殺されなければならないのか、こんな帰宅途中なんてありふれた状況で、後もう数百メートルで家に着くというのに、ただで請け負われた仕事の結果死ななければならないのか! 酷く上等な喜悲劇を演じているような気がした。シェイクスピア、一体どうすればこの喜悲劇を演目化出来るだろうか? 演じられるのは一回限り、何故って自分は死ななければならないのだから! あぁ、どうせなら自分を殺す男の顔を見てやってから死にたい。美しければいいのだがと思えばそうしたらあぁセックスしていなかったな最近と新たな思考に呑まれた。溜めたまま死ぬのは癪だがここで背後の男を組み敷いて犯せるだけの時間もない。そもそもその前に殺されている、いや、後生だからと言えば少しばかりどこかで抜いてくる猶予をくれるかもしれない、男として哀れで惨めな状況に同情してくれるかもしれない。何て無様だと冷静な自分が一蹴しようとしても、あぁしょうがない最期なんだから暫く好き勝手に思考させておくのがいいだろうと、それも傍観を決め込んだ。震えながら声だけが勝手に笑い転げた。神経が昂ぶり過ぎて気が違っていると解った。相当な醜態を曝している自覚はあったが今更それがどうしたと言う気持ちが優った。咽喉に当てられた刃物も気にはならない。自分が少しだけ前に重心を掛ければ自殺になるなと思った。殺されるのが嫌で自殺、結果的には何ら変わりはしないのに! 引き攣った笑いが人気のない夜道を絶え絶えに這った。
どれだけそうしていただろう、月が僅かに傾いた気がするが錯覚かもしれない。臓腑の痙攣も収まり、深呼吸出来るだけの余裕が生まれて始めて思考も視界も澄み渡っている事に気づいた。秋先に氾濫した川、水を濁していた泥が底に沈み、静けさを取り戻した冬の川のように澄み渡り冷めた感覚が指先にまで宿り、咽喉仏の下、一線当てられた白刃が食い込んでいる感触がやたら鮮明で困った。誤魔化しようがないほどに、吐息の重さで命の糸が断ち切れる未来が厳然たる真理のように眼の前に胡坐をかいて自分を見下ろしていた。
「……何故殺されるのかくらい教えてもらえないですか? タダで殺される代わりに土産をくれたって、貴方にも雇い主にも迷惑は掛からないでしょう?」 先程のまでの狂乱を億尾にも出さずに、まるで他人事のように咽喉から出た声は冷静だった。一度狂気の沸点を超えてしまったら、後はその状態を維持するか平静を通り越して鬱々とした状態まで下るしかない。今は後者、その途中なのだと筑紫は思った。
「勘違い……してるみたいだけど、」 俺は仕事に掛かる経費以外の金は受け取った事はないよ。幾分か潜められた声は、戸惑いを伝えた。今の筑紫には、死を目前にした者のみが持ち得る、冷静な狂気が神経一筋髪の毛一本に至るまで全身に満ちており、だからこそ男の蕩揺う霞のような存在感の薄い困惑までも解った。
「それじゃあ、貴方はどうして殺すんですか。それで食っていけるんですか、殺し屋なのに?」 一言問うてから、どうして自分を殺そうとしている人間の懐事情など探っているのだろうと自身呆れたが、呆れたのは自分だけにではなく相手に対してもだった。「――貴方は、随分とおかしな人ですね」 どうして俺をすぐに殺さなかったんですか。
何故か男は首筋に凶器を当てても尚、筑紫に話しかけた。あんまり自然だったものだから今の今までついぞ不思議に思わなかったが、殺す相手の柔らかな心臓を掌の上で弄ぶ趣味でもあるのか、未だに筑紫は生きていた。
「……確かめたかった、だけだ」 熱さを確かめる為舌先だけで舐めてみせるような用心深さ、それでも安心しきって相手を軽んじている猫の傲慢な声で、少し考えるような間の後に男は呟いた。確かめたかっただけだよ。自分が殺した相手は、殺さなきゃいけない相手だったのか。
「――『殺した』?」 男の言葉に引っ掛かりを覚えた。「何故過去形なんですか?」 まだ生きている自分を筑紫は知っている、確かに自分はまだ生きている。首筋に当てられた刃の生々しさは生者のみに感じられる恐怖を伴った現実の証。過去形で語られるにはまだ早かった。
――どこか、おかしくはないか? 浮かんだ疑いの黒点を白く塗り潰すだけの材料を持っていなかった。逆に、黒点を指先で擦り付けて広げていく事しか出来なかった。夜がいつの間にか空を圧迫し支配しているように、気付けばその考えは筑紫の頭の中、はちきれんばかりに膨張していた。抑えきれないのは、夜に似た絶望ではなく一筋射す光に紛うばかりの望み、筑紫が希う事すら初めから放棄していた望みだった。
「――もしかして、貴方は、」
「――……それ以上の過剰な期待は禁物だよ、」
筑紫警部、と。意に反して弾んだ声を遮られ、男に自分の名を呼ばれた刹那、脊髄を一線に静電気が流れる痛みを感じた。背中に押し当てられるものは何一つとしてない事は知っていた。躰の内部を走る火花は、快感に似た恐怖だった。
自分は、この声を前にも聞いた事がなかったか。自分の名を呼ぶこの声を、色を失った無彩色の声に鼓膜を震わせなかったか。白く煙り立ち昇る冷気の向こうに、男の声を、いや男本人の後姿を、凍えて震えるばかりの海馬の門番の眼は捉えた。何人何十人の部下の中、一人解像度の低い男。男。顔は、男の顔は。氷った霞に眼を皮膚を刺されながら、懸命に眼を凝らし記憶を浚った。男の顔は、男の名前は、名前は、――
「貴方は、」
一つ、だけ。捜し出した名前を発しようと震えた咽喉に、白い刃が真っ赤な直線を引いた。


パラレル世界1

(20060831)