シナプス間隙満たすは孤独
物心ついた時には既に何もかも覚えていた。
アンタの記憶力はいつからなんだと問われてアンドリューは傍らの男を振り返った。
「いつから、とはどういう意味でしょうか、笹塚さん?」
「……いや、何でもない。独り言」
独り言とは相手に問う言葉を指すのかと笑って指摘しても良かったが、笹塚はちらりと視線で自分を舐めただけで、すぐに無機質の瞳を手元の捜査資料に戻すと一枚、ぺらり捲った。その眼には既にアンドリューへの興味は見られない。そんな眼に気づいてしまえば、本当に独り言だったのだろうと大抵の人間は思わざるをえないような無関心の体現。
(……頭の良い人だ)
アンドリューは心の中で笹塚と言う男の評価を改めた。(笛吹さんの即決も解る)
自分の言葉の裏を正確に嗅ぎ取って、無意味に拘泥せずに身を翻してみせた男のその態度は、事前に仕入れていた情報と相俟って自分と似ていると思った。即ち、相手を徹底的に煙に撒く、本心は見せない、――利用できるだけ、利用する。
「……その情報は、今回の捜査で役に立つと思います?」
「さてね、だけど……知っておいて損はない情報だとは思う」
(……あくまで漣立たせず、か)
それは怪盗Xの仲間の一人とされる、イミナについての資料。国際手配されている工作員は、しかし暫く死んだかと思われていたほどに姿形も見せずに雌伏していたので、既に忘れている人間もいて当然だろう。そう思って本部の方からイミナに関するその全ての資料を予め送っておいてもらっていた。――雌伏するイミナの傍らで、雄飛していたのはXという怪物。その陰に隠れながら、だが確かにイミナは未だに生きていた。
(姿形も見せないまま潜んでいた人間が……元の姿形を一切残してはくれない存在の真横にいた)
これは彼女も感化された事を意味するのだろうかと考えて、一体理解に何の意味があるのかと思い直した。理解せずとも、この脳に記憶したものを判断すればいいだけの事だ。理解は判断に自らの思い込みを加味したものに過ぎない。
(何一つ忘れないのだから)
忘れないから、そこに理解を差し込む必要がない。自らの思いを書き加えて、そこで初めてヒトはその情報を自分のものにするのだろう。自分のものにするからこそ、忘れない記憶になるのだろう。特別な記憶になるのだろう。引き出され繰り返されまた仕舞われて引き出され。その繰り返しで情報は記憶されていく。忘れられなくなっていく。だが自分には必要ないのだ。自分のものにしなくとも――特別なものにしなくとも、そこに情報は情報として存在し、記録されているのだから。……けして忘れないのだから、忘れられないのだから、情報を記憶しなくともいいのだ。
(――なら、彼は『その時』の光景を記憶しているのだろうか)
「……貴方も、忘れられないものがあるでしょう」
いや、忘れられない光景、と言った方がより正確でしょうかね? アンドリューの潜めた笑いに、男は小さくそんなモンないさと呟いた。
「そんなモン、ない」
繰り返された言葉に、先程彼が見せてくれた誠意に敬意を表し、自分も返した。
「そうですか」
あっさり引いてみせる、その引き際に視線だけを寄越して笹塚は了解と境界を認めたらしい。手元の資料をぽんと机の上に放ると、アンタはあんまり警察官らしくないなと嘯いた。
「アンタのそれは、まるで裏のスタンスだよ」
世間話のネタの一つのように場に提供された話題は、おおよそ警察官二人がいる空間に似つかわしくなかった。
自分から、本来ならばひた隠すべき彼自身の過去の一端を、その素振りすら見せずに垣間見せた笹塚に、アンドリューも相応の誠意をもってして、それは貴方にも言える事ですよと笑った。
「貴方の捨て身のそれも、裏のものに通じていますが――寧ろ、それはよりニホンの特攻にも似ている。――貴方には、もう守るものがないという点で大きく異なるのでしょうが」
どちらにしろ、だからこそ、どんな無茶でもできるという点では同じですよね。
――少し、だけ。今し方引いた境界に少しだけ踏み込んでみた。笹塚という男がどう返してくるのか、興味が湧いた。
笹塚はアンドリューの緩んだ目許辺りに視線を彷徨わせ、それは逡巡しているように見えたが単に自分を胡乱気に見ていただけなのかもしれなかった。
「――俺は何も守った事はないよ」
その一言はアンドリューの気に入る答えの一つになった。