エイドラの薄片、眼の奥に
いくらでもくれてやれるんですこの躰なら。この躰で事足りるならそれで元に戻るんだったらくれてやりたい。貴方のご両親に妹さんに、彼らの躰を再生するのにこの躰が必要だというのなら俺はきっと恭しく差し出す事だってできるんでしょう。喜んで投げ出します、それで救いが貴方に齎されるのなら。人の罪を背負わされて捧げられた哀れな山羊ではなく、自ら望んでイサクになります。
でも貴方が欲しいのは、もう何ものでもないのでしょう?
それは、誰もが願う事で、でも誰にも叶える事ができない事なのでしょう?
惨劇の家を訪ねた時部屋に染み付いた胸をむかつかせる血の臭いと共に貴方が眼にしただろう光景を自分も目の当たりにしたような幻覚を見て、自分は一瞬たりともその現場を見ていないのにまるで脳の奥から引き摺り出されたように眼の前に置き去りにされた暗い赤一色の世界は直視できないのに凝視するしかないみたいな、全体を認識してしまえば吐き気しか催さず一部だけ見ていればその分救われるようで何かよからぬものに巣食われていて蝕まれていて、右を見ても左を見ても上も下も死臭腐臭に満ちていて小さい羽虫が瞼にたかり蛆虫が首筋を滑りながら這うようなおぞましさでそういう悲惨さででも俺はそれを実際見ていなくて、全ては脳の悪戯にすぎずエイドラの薄片が突き刺さっただけに過ぎない。そう俺は本当は何も見てなんかいないのです。貴方の事すら、見えていなかったのですから。
いくらでも、脳内に呼び起こす事ができるのに、どうして過去というものは現実に模る事ができないのだろうと、ならばいっそ過去など記憶できない方が良かったのかと考えます。
でも貴方を生かしているのも、その過去なんでしょう?
筑紫の話