声亡き忠誠心
余計な事を言うなよ、普段その眼に色なんて映さないくせにその時ばかりは滑稽なくらいにちりちり髪の毛を焦がすような赤い熱を湛え青白い顔の病人が真剣に言うものだから、そんなにあの子が心配なんですかと揶揄する気持ちを隠さずに寧ろさらけ出すように返した自分がこんな礼のなっていないかと言って親しみなんてそれ以上に篭もっていない口調で尊敬する人間に接するなんて十年前には全く予想だにしなかったそれが今はどうだ。楽しむように相手を苛む事に悦びを得る嗜虐癖など自分にはなかったはずだがベッドに横たわる男の何という存在感の薄さそれは躰の薄さや色素に雰囲気纏う空気の層の薄さにも少なからず関わり合いがあったのだけれど総合して紙っぺらより薄く髪の毛よりも細い存在に針を刺すように辛辣な言葉の一つや二つくれてやったって誰にも文句は言われないだろう痛覚なんて存在しないようなまるで本当に紙人形のようで事実笹塚の部下は自分の言葉に腰を浮かせかけたけれど彼の制止によって中途半端に終わった。制止の際に点滴の管を通した血の気を失っている青い腕がその先の枯れ枝のような指が部下の手にそっと置かれたのを見てまた一層自分の不機嫌が募るのを筑紫は確かに感じ癇に障ったのだと数拍遅れて会得する。民間人を巻き込んでいいわけないだろう、今回あの子らを現場に入れたのは俺の責任でだからあちらさんに一切の咎はないって事を言いたいだけだ。息するのもつらいくせに何一生懸命弁護してるんですか大人しく寝てればいいでしょう、俺だって特高じゃないんですから拷問なんてしませんよ、ただ事情を聞きに行くつもりだと言っているだけなんですから予め貴方に言っておこうと寄っただけ感謝してほしいものですよ。傷口に塩を擦り込むようとは恐らく今の自分の行為を言うのだろう塩なんて物足りないもっと激痛を起こすようなものをその躰に心に擦り込んで塗りたくってやりたいいっそ毒を傷口を爛れさせ腐らせる毒をもう独りで自由に動けなくなってしまうくらいの重い枷を頸木をつけてこのままここから動けなくしてしまった方がいいのではないだろうか。これは拘束でも束縛でも監禁でも幽閉でもなく保護であり庇護であり望むなら手厚い看護だってしてやるたとえどんなに凶暴で傲慢な獣であっても絶滅危惧種なら救わざるを得ないそれと同じ事この手で飼い慣らされて繁殖させられ種の存続を図らされるのだ大義名分を持ってして。相手が抵抗できないのをいい事に好き勝手して蹂躙してこれでは力に溺れた独裁者特高と同程度の愚挙だと理解してはいるそれでもどこをどうすれば止まるのだろうと考えながらも尚言葉を止めない自分はあくまでポーズに拘るしみったれた官僚思考を良くも悪くも自分のものにしたのだと唐突に実感した。
笹塚さん今回の貴方の作戦は笛吹さんも認めたもので、けれどもあの少女と助手の男を現場に入れた事は貴方の責任で勝手な行動でだからそれに対する非難批判は全て貴方に帰する、そんな事は当然でしょうでも少なくとも笛吹さんは貴方の上司に当たるんです監督不行き届きの追及は免れません。その物言いは平素の筑紫という男を知る者からしてみれば己が眼を疑っただろう傲岸不遜傍若無人の人を見下し軽んじたものでこの状況下明らかにベッドの上でじっと慎重に筑紫の言に耳を傾けている男を卑下していた。軽蔑する眼差しを溢れ零れるほど注ぎ続け批判する口で掬ってはまた侮蔑を頭から掛けこれ以上ないと思われるほどの恥辱を与え続け人の尊厳を案ずる心を何処かそれこそ十年前のあの場に自分は疾うに汚物を捨てるように投げ捨ててきていたのかもしれない。いくらなんでもあんまりじゃないですかと今度は笹塚の制止を振りきってベッドの向こう側椅子を蹴飛ばすように立ち上がった年若い少年のような幼い顔の男はその頬を真っ赤に上気させてあんまりですいくらキャリアだからって上司だからって、先輩に全部ひっ被せるつもりですか。むやみやたらと豆鉄砲の如き非難の弾を撃ちまくるその男がそれは煩わしかったのでしかも先輩先輩何の躊躇いもなく呼ぶ男の立場からすれば当然であるはずの呼称が酷く尊く掛け替えのない名のように聞こえ蛞蝓が耳の中を這いずり入ってきたようなねっとりとしたおぞましさを伴って筑紫の躰を震わせたので貴方は口を出さないで下さいいやそれよりこの病室から退出して下さいとそれでも敬語を保って命じた。なのに嫌です俺出ませんからなんて聞き分けのない子供のような強情を張る全く曲がりなりにも二十歳を過ぎた男しかも刑事が駄々を捏ねる姿なぞ見たくもない疎ましい愚かしい何でそんなに怒りの篭った眼で自分を見るあぁ疎ましい苛立つ勝気な黒が我に正義ありと謳うように強く光を湛えていて何も知らないくせにと叫びたくなった。胸の裡の苛立ちなぞこんな歯牙にかけるまでもない人間の前で曝す真似はしたくはなかっただから再度命令です、貴方が居ると話が進まない何が話ですか、全然話になってないじゃないですか先輩一方的に責め立てるのが話し合いだって言うんですか上は先輩切り捨てたいだけじゃないんですか最後の一言が一撃だった。胸倉を掴もうと伸ばした手がシャツを掴むより一瞬早く筑紫、一瞬にして沸点に達したこの場にそぐわない冷えて渇いた声が伸ばした手の行き場を失わせ彷徨わせ暫しの逡巡の後に引っ込めさせた。その手が収められたのを見届け咄嗟に身を硬くし構える素振りを見せた後輩に石垣、石垣今日はもう帰れいつまでもこんな所で非番の貴重な時間を潰す事はないだろう特別な事など何一つとして口にしていないのにその言葉は抗いを許さない否受け容れないダイヤの硬度を持っていた。先は無謀にも筑紫に食って掛かってみせたが笹塚の言葉に逆らってはいけない何かが潜んでいるのを生来の敏感さで察知したのだろう石垣は二三回筑紫に向かい口を開閉して見せるもそれでも堪え言葉を空気と共に飲み下し視線をベッドの上の男に移しそれじゃ先輩安静にしてて下さいね何かあったら直ぐに連絡下さいね約束ですよ、お願いですよ。後はもう回復するのを待つのみだと解っているのにそんな大仰に真面目くさった顔でのたまうものだから筑紫は嘲る視線を剥き出しに二人を見下ろしていた。頭一個背の低い男が屈めていた腰をすっと伸ばすとそのまま真っ直ぐに貫く視線で自分を睨んだが睨め返ししかしどうしてだか凹レンズで焦点が合わせられたように眼の奥がかっと熱くなり疼いた。石垣は部屋を出るまで俺はあんたを見てるんだからなと釘を刺す眼で筑紫を睨み続け最後に恐らく笹塚に対して小さく頭を下げてそうして二人だけになった。
石垣を責めてやるな、あれはあれで懸命なんだ。ベッドのシーツの上に視線を彷徨わせ吐き出した息は短く途切れた代わりに長い沈黙が後を引き継ぎ時折あばらが痛みで疼くのか躰がはね衣擦れの音がよく聞こえた。再度先刻までの勢いを取り戻そうにも筑紫は自分の口の中に言葉を構成する器官を確認する事ができなかった声の出し方を忘れたように咽喉は空気のみを通す。沈黙は雄弁なりというのなら今この場で演説を打っているのは笹塚このベッドに沈む陰鬱な病人が自分一人に高説を述べている真っ最中なのだそんな穿った思惑を含んだ眼差しで見やれば狙ったように視線がぶつかった。これが常なら直ぐにそれも自然そのもの後も引かずに視線を逸らす男が何故かこの時は逸らさずに眼と眼がぴったり一寸の狂いもなく不可視の糸で縫い合わされたように離れなかった。激務を極める日常から強制隔離されているにも関わらず眼の下を縁取る濃くはっきりした隈の原因は考えるまでもなく食事もまともに摂れずに点滴に頼るしかない躰はより余計なものを削ぎ落とされた無駄のないものになり深く落ち込んだ白橡の眼は一滴二滴漆黒を垂らした黒橡に近い暗色に見えた。貴方は一体何様ですか沈黙の鋼糸で閉じられた口を無理矢理こじ開け眼を逸らせないままに吐き捨てるしかなかった言葉を笹塚は瞬きもせずに受け容れた。奥に孕んでいた熾火は今はすっかり熱を失いただただ起伏のない感情と呼べない感情しか読み取れない男の眼は石の眼叩き壊しても何の意味もない道端に転がる石ころに過ぎなくなっておりしかしその石ころはどうしてだか筑紫の眼を捉えて咽喉はそれ以上の言葉を発する事を拒み静謐が虚空を引っ掻いては傷口からまた沈黙が滲み出てそれを繰り返した。充満し飽和しかけたその空間に筑紫俺はお前に使われる立場だからお前も笛吹もそんな風に俺の事で心を砕くな使えなくなったら捨てちまえばいい放られた言葉は湖面に投げ込まれた石のように沈黙と静謐とに波紋を生み筑紫の恐らく一番触れてはならない所に飛沫が飛んだ。
どれだけ貴方は傲慢なんですかたった一言しか発せない自分に苛立ちを感じながらふざけないで下さいふざけるなよ漏れた本音は怒りにぶれ追い討ちをかけるように襲ってくる途方もない何かが荒ぶる心を更に乱したいっそいっその事。この驕慢な男を何の苦もなく赤子の首をへし折るように殺せるだろう自分に筑紫は気付いた。
谷崎潤一郎に焦がれて跡形もなく焼かれた。