魔人探偵脳噛ネウロ

空を見上げて泣く子供

死に急いでいるわけじゃない。
白々しい一言は、水素よりも軽いんじゃないだろうか、振ったらカラカラ言葉の骨が転がる音がしそうなほど虚ろだった。
死に急いでいるわけでも、生き急いでいるわけでもないんだ。
ベッドライトのこの場にそぐわない暖かみのある灯が手元を照らし、膝の上で開いた白黒の大判写真集、その中に佇む少年の背中を、まるで眼の前に本当に実在しているかのように指先で辿りながら笹塚は言った。
二本の足で立つ少年は極限まで痩せ細っていた。それ以外の言葉で何と言えばいい? 枯れ枝を組み合わせて作られたような躰、しかも恐ろしく単純な骨組みで皮膚が燻されたようにぴったりと骨に密着していた。接着されていたと言ってもいいのかもしれない。窪んだ腰元、穿たれた穴に落ちた影を見る。贅肉、贅沢な肉、そう、肉は贅沢の象徴だ。そして彼は贅沢からかけ離れた対極の日々を過ごしているのだろう。極限まで削られるだけ削り落とされた存在。誰によって? 何によって? 背景をこの写真は教えてはくれない。しかし確かに少年はそこに在った。背景に沈む事なく、自らを自らの存在を主張していた。
これ以上削れるところなどあるはずもない、肉がないその足で人間は立つ事ができてしまうのだという事実に笹塚は奇妙な既視感を覚えた。背骨を躰の中に押し込むように、紙面に指を押し付ける。指先に少年の薄皮の下、流れる血の熱さや頼りない拍動を感じる。錯覚。水分すらまともに摂取していないだろう肌は色のない写真でも鮮明に解るほど乾いている。ざらり、滑り気のない爬虫類の割れた皮膚を拾っていく。
一人暮らしの乱雑さとはかけ離れた、広く整然とした部屋。筑紫の趣味か元々か、薄い灰色を基調とした寝室、高さで揃えられた天井まで届く黒い本棚から一冊笹塚が取り出したのは、戦時下の家族を失った子供らを写したとある女性写真家の作品集だった。部屋の明かりもつけないままに、暇潰しに眺めていたのだろう本の背表紙の中で笹塚がその写真集に眼を留めたのは自然だと、筑紫は安物のウィスキーを舐めながら思った。笹塚なら、きっと惹かれるだろう――確信だった。
貴方は、きっとそれを手に取ると思ったんです。笹塚が筑紫に断りを入れる前に、言った。――貴方は、死に急ぎすぎているから。
自分と対極の位置、皺だらけのベッドの縁に腰掛けて俯く男は、つい先ほどまでここで抱かれていた事など綺麗さっぱり忘れたかのように湿った空気を掃っていた。唯一の痕跡といえば、大きく肌蹴た胸元、鎖骨の上に滲んだ赤くらいだろうか。それだって虫に刺された跡だとでも言われてしまえば、それで終わりだった。
笹塚という男は、頓着しない事でどうにかこの世に留まっているような人間だと筑紫は短くはない十年の歳月で学ばされた。学ばなければ、恐らく今こうして笹塚と私的な時間を共に過ごす事はなかっただろう。暗黙の内に提示された条件を筑紫は了解し、二人の間に決定的な執心が持ち込まれる事はなくなった。
(それでも、)
誰も特別ではない男と、特別な関係になる。誰とでも構わずに寝るわけじゃないと知っているからこそ、ならば自分は彼の中でどういう位置にいるのだろうとその立ち位置を確かめたくなる。
貴方を抱く人間は、少なくともこちらの世界では今は俺だけなんでしょう。今までは知らないけれど、今は。笹塚の特別を与えられたとそこに自惚れをもって確かめたくとも、その心を持ったまま笹塚を抱けば勘付かれるだろう。自分の執心は、笹塚の幾重にも重ねられた防壁層の一番上、空気にも似た薄さの膜に触れただけで、無惨に打ち砕かれるだろう。――二度と関係を持つ事はないという、最も望まない結果を伴って。一口、想像して渇いた口の中を飴色の液体で湿らせた。
――なのに、どうして自分はあんな一言を発してしまったのだろう。どろりと溶ける執心が透けて見える、浅ましい一言を。言ってはいけない言葉の一つを。抑えようともしなかった、言おうと思っていたわけじゃなかったから。まるで生きているように言葉が咽喉の奥からするりと抜け出して、自由の身が持ちうる気侭さでこの閉塞した空間に躍り出た。直後に自らの手で屠ろうとしたが拾い上げるより僅かに早く、笹塚がその言葉を拾ってしまった。――死に急いでいるわけじゃない、と。
「……死に急いでいるわけじゃないんだけどさ、」
笹塚は変わらずに写真集に見入っていた。空気を一片も変化させずに平然としたままで。筑紫の緊張した声音の裏にあるものの種類は笹塚が筑紫に捨てるように暗に求め続けたものだったが、今はそれを躊躇いなく拾い上げた自分が不思議だった。自分が自分を裏切り、筑紫がその言葉を撤回する前に反射的に奪い取った。
そうして静かに思考する。空気が巡らずに留まってしまっているかのようにも感じられる、澱み閉じられた部屋の中で血の巡りの悪い鉛の頭を働かせる。もう筑紫が零した言葉は自分の手の内にある、なかった事にはできないのだから焦る事はない、自身に言い聞かせるように心の中、呟く。焦る事はない、再度一音一音噛み締めるように確かめる。筑紫が今更持ち出してきた感情に対しても、自身がそれを放っておかなかった事も全て含めて。
自分は、普通に、普通に生きているに過ぎない。毎日職場に行く、毎日食事も摂る、睡眠だって取る。他愛のない話もするし、セックスだってする。三大欲を満たして生活している、それのどこに死に急ぐ自分を見出せる? 欲求を満たしている点で、これ以上ないくらいに人生を満喫しているじゃないか。
――そこまで及んだ思考を止め、自分でも莫迦な事を考えていると、少年の背中を弄ぶ指を離した。欲求を満たす事に何の意味がある。どれか一つ満たされなかったら、全てが否定され得るとでも? 欲望は、生きる上で何かしらの意味はあっても何の役にも立たない。比較対照に、意味はない。彼は今どうなっているのだろう、戒める代わりに天涯孤独の身の上の少年の背中を凝視する。思い上がるな。――家族を殺されたのは、この地球上で自分一人なわけではない。
この世界で家族を失い唯独りであっても、家族を失った唯一人ではない。
「死に急いでるんじゃなくて、唯、死を考えた事が多いだけだよ」
別に急いでいるわけではなく、今はもうそんな事を考える余裕もない。死について考えるなんて余程暇な人間だけだとしたり顔で言う気も毛頭なかったが、死を考えるなんて余程この世に未練が在る人間だけだとは言いたかった。まさしく自分がそうで、この世に未練が多すぎた、恨みが多すぎた、だから死を考えた、自分の死を、この国の死を、この世界の死を、全ての死を、考えた。この世界が自分に与えてくれただろうもの全てを掻き集めても、この身に孕んだ恨みはそれを遥かに凌駕した。どうなってもいいのだと思わせるだけの遺恨があった。自分にとって世界は敵になった。
それは全て過去形でしか語り得ない。
「ただそれだけ」
開いた本をばたんと閉じ、同じ境遇の少年を絶つ。寄りかかる背凭れもなく後ろに手をつき高い天井を仰いだ。部屋の中も外と同じように夜に染められ、ベッドライトの僅かな光があれど、その白熱の灯は天井を舐めるほどの勢いはなかった。
夜の重み、静かな、沈澱する、足下にまとわりつくひんやりとした躰を地に沈ませようとする空間の存在に抗うように、笹塚は大きくそのしなやかな身を仰け反らせた。破れそうな皮膚に露骨なまでに骨が浮き、滑らかなラインが色濃く縁取られまるで影絵のように頼りない灯の中で際立つ。
閉じた瞼の裏に焼き付く前にその姿を消し去ろうと他の映像を記憶の中から浚っては挿げ替えていく。このまま見ていたら、引き摺られそうだった。置き去りにしてきた未練と恨みに。仰け反らせた咽喉仏が大きく上下した。
呑み込んだのは、筑紫には決して見せる事はないだろう感情の塊。それは実際悪性腫瘍のように笹塚の躰に巣食って切り離せないもの。果たして、再び活発に動き始めるのはいつだろうか? まだ大丈夫かもしれないもう駄目かもしれない自身には解らない。悪性の腫瘍は、自分の意志でどうにかなるようなものではないから。勝手に無制限に増殖し転移し壊れない為にこの躰と心は壊されていく。――もしかしたら、本当はとっくに侵されているのかもしれなかった。
「……それだけ、なんだよ」
吸った息を絞り尽すように細く長く吐き出した笹塚のその咽喉仏に、筑紫は片手に持っていたグラスを乱暴に脇のデスクに置いてまるで獣のように噛み付いた。ひゅっと咽喉が鳴り、笹塚のごつりとした咽喉仏が舌先を押し戻すようにひくついた。
その動きが予想外に小さく、小動物の震えにも似た動きだったので、簡単に咽喉を食い破れそうだと軽薄にも思った。血が透けて見える薄い皮膚は、呆気ないほど容易く、角が取れても尚引き千切る為に存在する歯で噛み切れるだろう。柔らかな肉に歯が食い込み、少し力を込めればぶつりと皮膚が裂ける様が脳内に弾けた。――本当に、そうできたら。それが彼の解放になるのなら。
笹塚が呑み込んだだろう、呑み込まざるを得なかっただろう感情を外に出してやりたかった。端から無理な事を承知で、それでも呑み込めないで途中で詰まり塞がれたのは気道か食道かそれ以外か、なだらかな咽喉の上に唐突に浮き出る塊を見たら、堪らなくなった。ほとんど衝動だった。噛み付いていた。
少しだけ顎の力を緩め、柔らかな肉に歯を立てるのをやめた。やめたが、尚唇だけでその咽喉を食んでいた。傷をつけないように柔らかく甘く、舐めるように上下の唇で挟んでは触れるだけの口付けをする。赤子に似た滑らかな皮膚の下を血潮の熱さがとくんとくんと蠢くのを感じ取っては、あぁ確かに生きていると何でもない事を確認して心の底から安堵する。大丈夫、ここにいる、ここに在る。それが酷く掛け替えのない事実で、恐らく今これ以上に必要とする現実はなくて。そのまま滑らせて仰け反った首のラインを下り、骨の凹凸、肉の厚みに深く唇を落としていく。
印をつけるという単純な所有表明の行為は、反面どこか意味もなく穴を掘り続けるロシアの刑罰も想起させた。この行為に何も意味はなく、どうせ見知らぬ誰かにこの印は上塗りされてしまうのだろう。何度だって塗り重ねられる、それが笹塚という人間で、その心に誰も楔を打ち込む事などできやしない。瑕疵一つない裸の胸元を片手で弄りながら、そのままベッドに優しく押し倒す。
「……また?」 短い幼子の言葉に、今日はもうやりませんよと諭すように、それでも躰の線を指の腹でなぞりながら返した。あばらが浮いた脇腹を撫で下ろし、相変わらず研ぎ澄まされた刃のように無駄のない肉のつき方に年齢を忘れそうになる。この躰は細いくせに重い、そういう密度の高いつくりをしている事ももう何度も重ねた情交で解っている。この躰が以前に比べてずっと同性を受け入れ易くなっている事も、一年を置いて再び肌を交えた時に解った。
服の上、下肢に這わせた掌で置かれたままの写真集を脇に退けた。どさり、と、軽くはない本がシーツの波間に滑り込むように沈んだ。「――今日はもう寝るでしょう、」
その写真集もまたまだ筑紫が大学生の時分に、偶然手に取ったが最後後々古書店街を渡り歩いてまで探したものだった。――笹塚が姿を眩ませてから、手に入れたものだった。笹塚が訪れるようになったこの部屋で、いつでも彼に見つけられるように置いてあったものだった。見つけて欲しいと思いながらも見つけられて何が変わるのかと思えば、何も変わらないと知っている自分がいた。自分から読ませようとは思わなかった、そうでなくても、筑紫はその写真集から笹塚が何を思ったのか正確にトレースしているはずだった。
「寝かせてくれるのか」 くぐもった笑い声が頭上に降る。擦れたのは十年前から一気に吸う量が増えた煙草の所為で、煙に水分を奪い取られ嗄れた咽喉は、もう二度と潤う事はないのだと知れた。あの頃はどんな声をしていたのだろう。呼気の底に溜まった砂が咽喉を掻いて笹塚のその声音は筑紫の肌をざらりと撫でたけれど、十年前はもっと肌に馴染む滲み透るような声ではなかっただろうか。触れるだけで心の一番深いところがとろり蕩けそうになる、苦い唇が紡ぐ優しい人肌の声を懐かしもうにも、既にこのざらついた肌を擦る声に馴染み適応してしまった。あの頃に享受していた甘さに感覚が戻せないところまで、自分も相応に苦味を覚え慣れてしまった。生々しい青葉の匂いを脱ぎ捨てた今は煙草と香水と、そういった人工的な匂いを身に纏っていた。それが筑紫の十年だった。
「俺にも節度はありますよ」 何ものにも囚われていないと表明するように名残惜しさなど微塵も見せずに、筑紫は胸元に埋めていた顔を上げ、そのまま撫でるように猫毛を梳いた。絡まらない髪は、男の性格を彷彿させた。
「もう、寝ましょう、」
きっと彼は家族が殺されたのは自分一人ではないと考えただろう。事実その通り、彼だけが家族を殺された慟哭の徒ではなく、今この瞬間にでも何処かで家族を失い声を張り上げ泣き叫ぶ人が在るのだろう。上げる声を嗄らし涙を涸らし枯渇した双眸を彷徨わせる人が在るのだろう。

閉じられた白黒の画の中、痩せ細った背を向けて、折れそうな首をそれでも反らして空を見上げる子供のように。


以前見た少年の陰翳を彼の背中に見た、と同じ写真家の作品

(20060521)