幸を踏む足
ユキの本名は幸宜という。
雪国生まれな者だから、大概ユキの音を聞くと、あの白い化け物の雪を思い浮かべるらしい。
誰が好き好んであんな白に名を貰うか。
ユキにとっての雪は、熱を奪うものでも四肢の自由を奪うものでもあったし言葉を奪うものでも音を奪うものでもあった。
味覚や嗅覚、触覚だって相当失われただろう。
全てを奪うもの、それが雪だった。
吹雪の音が響く。
音が響きすぎてどの音だか解らなくなる――音の混色。
一つの音がまともに取り出せない、様々な音が食い込み、虫のように音脈を穴だらけにしてしまう。
虫食いの跡無惨、そんな音は既に音を失っているに等しく、残滓だけが他の滓と混ざってまた新たな音になった。
まるで洗濯機の渦に、音の欠片を掻き集めては放り込んだよう。
ぐるぐると同じ所を回る寄せ集めの不協和音ばかりが成り立てるその音も、同じように食われていく。
延々と飽きる事なく繰り返される音の下克上は、一つ一つ取り出せないと同時に、何も聞けていないのと同然だった。
視界が白に埋もれる。
単色。
加法混色というものの存在を兄が教えてくれた。
光の三原色と呼ばれるもの三色、重なり合った所は白く見えるのだという。
自身そのものが光を発している場合に加法混色を取るのだという。
難しくてよく解らなかったが、それは普通の絵の具と異なり、混ぜれば濁るのではなく透明になるのだという事。
面白いと思った。
白い世界。
白ばかり――無彩色。
白に潰される。
眩しい。
瞼を閉じても尚、眼球が強く押し込まれたように奥がじんと痛む。
この世界もまた、光を発するものばかりで、だからこんなにも影のない世界が広がっているのだろうか。
追われた影は、この身の裡で息を潜めて蹲っている。
世界の麻痺。
存在の希薄。
音もなく色もなく、匂いすら雪に吸収される。
白い世界は無味無臭無色透明の世界で、三次元四次元のレヴェルに到達しない、まるで二次元の世界に迷い込んだような、二極化された一面。
二極化、まで行かない、ここには白しかない。
白だと判断する為の必要な他の色はもう記憶の中にしか残っていなくて、それが擦り減って無くなってしまえば、もう白だと判断すらできやしない。
――ユキは時折、幼い心で思った。
雪に吸収された音や匂いは何処へ行くのだろう?
溶けて消えてしまうのか、でもその跡を自分は見た事がない。
雪をすくって口に運べば、舌の上で温かさと冷たさがせめぎ合いながら水になった。
味はしない、匂いもしない、ただキーンとこめかみをつんざく刺激だけが残った。
音や匂いは何処へ行くの?
銀世界を二人手を繋いで歩きながら問うた時、兄は、ユキは面白い事を考えるなぁと苦笑した。
何処に行くんだろうな、笑った兄に、僕、嫌いだよ、雪なんて。全部奪うもの。
道の脇に退けられた雪の壁の間、その先まで続く白い道を見つつ、ユキが頬を膨らませてぶぅと唸った。嫌いだよ、雪なんて。
そうか? ユキは雪が嫌いなのか?
うんと頷いたユキは、それでも普段頭を撫でてくれる兄の手は好きだと思った。
全部がこの手のように、温かければいいのに。寒いのは、嫌い。
言えば、俺の手はそんなに温かいか?
すっとユキの前にしゃがんだ兄は、大きな両の手で羽毛のフードに覆われたユキの頬を挟んだ。
真正面から自分を見る、歳の離れた兄の顔。
親を知らないユキにとっては身近にいる唯一の大人で、親代わりで、世界の中心にいた。
白い世界の中で、色を失わない存在。
でも俺は雪、好きだけどなぁ、ユキは、そんなに嫌いか?
再度問われたユキは、兄さんは嫌いじゃないの? だって、皆持ってかれちゃうんだよ。
幼い反論に、兄は笑った。
――雪は、全部覆っちゃうだろう? 全部、隠してくれるだろう?
汚いものも、見たくないものも全部。
その言葉が酷く優しく、雪を溶かす温かな陽の光や風のように淡く聞こえたので、真意にユキが気付いたのはそれからずっと後の事だった。
早坂兄と弟の歳の差ならば、こういう会話も許されて欲しい……