涙は赤を失った血
時々ふっと気の遠くなるような平静というものが躰のなかに生まれる。波一つ立たない湖面のような静けさと涼やかさは躰の七割を占める水分というものが一斉に活動をやめて静止したかののようで、そこに放り込まれるものはといえば怒りでも悲しみでも喜びでも空しさでも、一切合財が特有の色を融かされて透明な雫になって頬を伝った。一種の浄化作用、全てが色を失う、ただの滓に過ぎなくなる、湖の底に沈んでいく。全てが同等のものになる。違いはない。
そういう時はいつもの見慣れた部屋が一斉に静まり返って、聞こえてしかるべき音すら聞こえなくなる。外の道路を大型車が通る際の振動すら躰のなかを徹る血の拍動と一体化し、外の音ではなく自分の音になっていて、まるでエピダウロスの大劇場、舞台中央で放られた小石が地面に落ちる音が、劇場内、もっとも遠くにいる自分にまで階段を駆け上ってくるように、自分のなかの感情が自分の外からやってきて徹り抜けるような、外界との位置関係が反転する。
足の指先でとくんと感じる拍や、腿に添って流れる血脈を通るぴくんとした不整脈だったり、骨に守られていない下っ腹の直接に膨張し収縮してみせる胎動のような腸内の消化だったり、咽喉を巡る大動脈大静脈だったり、頭蓋と皮膚の間を這う涸れ果てた川の跡のような血管の蠢きだったり。そういった躰の隅で感じられる動きに、漸く自身を認知するけども、だからといってそれが外界と自分が区分けられているという確証にはならなかった。この薄い平面曲面限度はあれど伸縮自在の細胞組織に覆われたものは、その実、外界のものと何ら変わりがないのではないか。この皮を剥げば、もしかしたら、何もないのではないか。空気を詰められた風船のように、何も、そう、それこそ七割ではなく十割が水分だったとしても納得する。形のない水に、容を与えただけで、それが自分という存在なのではないだろうか。
躰を構成する十割の水。頬を流れる液体が、感情が色を失った名残りで、ならばその色は何処に行ったのだか。この湖に漂白されてしまったのか。塩素につけられたように。今この躰のなかに湧き出ているものは、全ての色を消す混じり気のない純粋な塩素の湖。
いつか流した涙には、きっと赤を失った血も含まれていたのだろう。