黄色い線の内側に座る
危ないですよ、筑紫の制止の声を振りきって、ホームの端にまで一目散で駆け出すと、笹塚は上り下り双方の電車が来ない事を確認し、そのままぺたんとプラットホームの縁、黄色い線の内側に座り、ぽんと長い脚を空に投げ出した。ひんやり冷気の滲みこんだコンクリートで尻は冷えないのだろうか、そんな心配をして、相手は男なのだからそうも心配しないでもいいだろうにと筑紫は自身を笑った。
冴えた冷たさを含んだ風に髪を乱されながら、子供のように足をぶらぶらと動かし、時折はたと止まっては線路上にせり出したホームの、丁度自分の方からは影になって見えない部分を覗き込んでいた。缶やペットボトル、パンの包装袋、菓子の包装紙。ゴミがたくさん捨てられてるなんて悲しそうにぽつり呟いて、届きもしないのにまるでそのゴミを散らすように足を忙しなく前後に振っていた。見ようによっては、母親が近所の友人と立ち話をしている最中、所在なさげにベンチに座って時間を潰している子供のようで、図体などを鑑みれば普段なら抱かないだろう、妙な愛嬌を感じた。少し丸まった背中は薄く、呟いた言葉も相成ってちょっとした拍子に線路に落ちてしまいそうな、そういう胸の内側を小指で引っ掻かれる一抹の頼りなさをその後姿に見たからかもしれなかった。
時刻は午前零時を回り、そして笹塚は酔っていた。終電一本前、日中利用客の多い駅のホームには、向こう側のホームのベンチで眠る会社員風の男が一人いるだけで、筑紫と笹塚以外誰もいなかった。「俺、プラットホームの縁に腰掛けるのやってみたかったんだ」 夜風に吹かれながら前を歩いていた笹塚が筑紫を振り返り、突然声を発したかと思えば、一気にホームの端に向かって駆けたのだった。
「笹塚さん、ほら、まだ電車は来るんですから」
笹塚の片腕に自分の腕を絡め、そのまま引っ張り上げようとすれば、まだ大丈夫だってと逆に引っ張り込まれた。
「ちょ……っ」 危ないですって、下から引っ張られてバランスが崩れ、ニ三歩よろけるも、そこまで酒も入っていなかったのですぐに体勢を整え直した。唯でさえ黄色い線の内側、下手によろけたら転落するだろう。膝に手を突き、腕を突っ張らせて屈めた腰の負担を軽くする。笹塚が軽く見上げ、筑紫が軽く目線を下げる程度、丁度視線が交わった。
「筑紫も座れば?」「謹んで遠慮させて貰います」 間髪入れずに返された筑紫の、酒の席の後でも生真面目な一言に、普段人いる時なんかにできないぞー。語尾を調子良く伸ばした酔った男の言葉に、苦笑いで返す。「人が大勢いる時にそんな事されたら、一緒にいるこちらも困りますから止めて下さいね」
だから今してんだって。車掌に見つかれば危険行為だと説教を食らう事になるだろう、線路上、足をぶらつかせながら笹塚は唇を拗ねたように尖らせた。「俺だって最低限の常識は持ち合わせてるよ」
そうですか? 意地悪く聞き返して筑紫は笹塚の隣にしゃがんだ。一気に低くなった目線、それでも笹塚よりは僅かに高い位置にあったが、普段見ている景色が消えて、この視界は恐らく子供が見ている世界と同じなんだろうなと高架線故に高い、薄汚れ黄ばんだ白の壁を向こうに見ながら思った。普段なら高い壁の向こう、乱雑に建ち並ぶ雑居ビルだとか、掲げられた風俗関係の看板だとかが見えずに、子供にこんな看板見せちゃいけないよなと常々思っていたが、それは自分が自分の目線でだけ考えていただけなのだと知れた。
「……もう国家試験だって近いんですから、」
あんまり羽目を外さない方が良いですよ? 自分でも優等生の発言だなと思ったが、この何事にも頓着しない年上の男にはそれぐらい言っておいた方がいいだろう。笹塚にも解っていたのか、どっちが先輩なんだか解らねぇなと苦笑して、肝に銘じておくよ、尚足を空に放り投げたまま言った。
「でも、俺、」 もし一種通っても、現場の人間でありたいなぁ。そんで銃なんかばんばん撃っちゃったりさ、あぁ、勿論埠頭とか一般市民のいない所でな。そんなテレビの中でしか繰り広げられない銃撃戦を頭に思い浮かべたのか、握った右手、人差し指と親指を立てて即席の銃を作ってみせた。顔だけ笹塚を向いた筑紫の額に人差し指の銃口を押し付け、ばん、酒に湿った咽喉から、絡まりながら発された射撃音。「――そんで、お前は現場で左遷されてエリート街道外れた俺とコンビ組んで、笛吹が管理官でいっつもこめかみに青筋立てながら怒ってんだ」
どう、このプランは? ――以前に、俺は、一種なんか背伸びはせずに、ノンキャリで現場で働きたいと思うんですよ。一種を受けると言った笹塚の前でつい口の出した本音を、彼は覚えていたらしい。枯れた考えですけどと控え目に笑って言葉を継いだ筑紫に、笹塚は至極大真面目に、お前は机の前でしか物事考えられない環境には合わないよな、自分をよく解ってるよ。頷いた。まぁ、俺もそういうタイプじゃないから、一種通ったとしてもきっと出世街道外れるな。けらけら笑った。それじゃ何で受けるんですかと聞いたら、とことん抗いようがあるだろ、あの欠陥組織は。どれだけ白蟻みたいに内側から食い破っていけるかなぁと思って。さらりととんでもない事をのたまっていた。
「……俺も順当な昇進コースを外れるって事ですかね、」 照明の暗さ故か、白橡の眼が夜の色を湛えていて、普段とは異なる様相の眼の中心に映し出された自分の顔を見た。額に突きつけられた銃が、夜を漂う風に踊るようにぱらぱらと解けながら元の手の形に戻っていくのを視界の隅に見ながら、それよりも筑紫は眼前の男の相好が蕩けるように柔らかく崩れていく様に釘付けになった。彼の背後の濃藍に、その笑みは酷く映えた。「――だったら俺の二の舞・道連れにならないようしっかり地盤を固めながら頑張ってくれよ、」 そうすれば一層無茶できるってもんだ。子供のような無邪気さであー楽しみだなぁ。大きく躰を仰け反らせて天を仰いだ笹塚に倣い、筑紫も首を仰け反らせた。頭上に張り巡らされた配線電線の向こう、何もかも吸い込むような、深く練り上げられた極上の藍を見た。
事件一週間前