陰鬱な顔したイカサマ師の論理的命題
最初から自由を知らなければ不自由と言えないし、不自由だと知らなければきっと自由なのだろう。だが、完全に自由とも言えない。人間は生来飛ぶ事ができないのだから、飛べなくて酷く不自由な存在なのだなんて、そんな事は言えない。それは飛べる人間がいて、その人間にしか言えない、その人間だけが言って意味を為す、事だ。
そもそも自由とは何なのか。束縛されていない状態を指すのだろうか。束縛。精神的にだとか身体的にだとか思想的にだとか。束縛されていない状態を自由と言うのだろうか。拘束着を着せられて、四肢の自由の利かない状態。鋼の糸で編まれた柔らかな布で自由を奪われる。そんな自分を思い浮かべた。動けない事は不自由だ。でもその不自由の反対は、四肢を動かせるという自由で、自分は今まさに自由だった。
調べてみれば心のままである事だとか思うとおりだとか。責任を持って何かをする事に障害がない事だと出る。一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。社会的自由も存在する。社会の生活で個人の権利が侵されない事。自由。それは自由という言葉以外でも当てはまるのではないか。いや、この自由はあくまで法的な用い方だ。これは、分厚い本に載せる為にもっともらしく使われているに過ぎない。
カントとサルトルも語っている。意志が感性的欲望に束縛されずに、理性的な道徳命令に服する事。はたまた、存在構造上自由であるが、常にそこには未来への選択というものに対しての絶対的な隷属を強いられている。それ故に自由は重荷である。では、不自由という選択肢を選び取ればその重荷は下ろせるのだろうか。誰かに選択を任せてしまえば、いいのだろうか。敷かれたレールを走るなんて、それでも、自分が走る物体そのものなのか、操縦士なのか、唯の乗客なのかによって随分変わりそうなものを。この中で不自由なものは、走る物体だろう。――でも、それだって、ガタがくる。錆びてくるし汚れてくるし、完全な不自由など望むべくない。
同じ言葉に様々な矛盾。様々な矛盾の内包を許してしまえる、自由という言葉。英語に直せば親愛・いとしいと言う古英語からfreeはきている。libertyなら、それは圧政や束縛からの解放・自由を表すラテン語だ。それはこの国の自由という言葉と異なる。自らに由るからこその自由。いとしさも親愛もない、解放ですらない、淡白で明瞭。この潔さ。この気侭さ。自由。なら自分はどこまでも自由な存在なのだ。――俺は自由だよ。
そう言えば、何処がですか、何処が自由なんですか。たっぷりと水を含んだ筆から垂れた一滴のような言葉は、目の粗い水彩紙代わりの空気にぶわりと滲んで広がった。言った本人も意図しなかった滲み方だったのだろう、すぐに口を一文字に結んだ。きゅっと眉根が寄せられ、あんまり眉間に皺の癖をつけると取りにくくなるなんて軽口を許さない種類の感情からのそれだと一寸の狂いもなく理解していたので押し黙っていた。
傍から見れば、自分は自由なんかではない事は知っていた。ずっと、見えない存在の色濃い影に縫い付けられたままだと思われている事を知っていた。弁明もしなかった。結局は何に囚われ、何から放たれているか、それだけの事。自由であり不自由でもある、その矛盾そのものが自由を自由たるものにしている。自分は、唯、囚われているものが人様より少し異常で、放たれているものが人様が囚われているものだから、何処をどうしても規格内に収まりそうにない自由だっただけで、でもそれは自由なのだ。
自由は灰色領域がそれこそ無限に広がっているし、灰色領域しかないのが自由だ。その不明瞭さは特別じゃない。自由の象徴に例えられる鳥が羽ばたく空だって、実際宇宙との区別がつかない。何処からが空で何処からが宇宙なのか、境界線を引ける人間はいない。同じ事だ。同じ事。
筑紫、俺は束縛も何もされてないし、俺が自由だと思ってれば自由なんだ。有難いけど、お前の自由を俺に押し付けないでくれ。心の中、頭を撫でて諭すように呟いた。――俺をお前の不自由の原因にしないでくれ。
お前だって、俺は自由じゃないと言うお前だって、自由なんかじゃないだろう。代わりに吐き出した台詞は筑紫の心を鋭く突いたのか、苦しげに顔が歪められた。結局は全て個人に還元されるなら、今この場での言葉は全て無意味だ。それなのに、どうしてその無意味な言葉でこんなにも傷つく男がいるのだろう、笹塚の心に薄い霞がかかった。
不自由の話。