楽園の隣、苦しみの庭
貴方なんて勝手に死んでしまえばいいんです、自分に覆い被さっている後輩の唇が震えているのを見て、笹塚は酷く嗜虐的な気分になった。
潔癖なまでに白い部屋は個室、消毒液の臭いなんてものを嗅ぎ分けるだけの嗅覚は未だに戻っておらず、唯健康な人間には出せない、病人にしか持ち得ない独特の静寂で満たされている事だけは解った。
電気信号がショートしているのか、先程から指先がばちりばちりと静電気を放っている。指先の皮膚と肉の間で火花が爆ぜては散っていく。瞬間走る微かな痛みは、今の自分にとっては単純刺激で心地好かった。けして手首から上には行かない、掌、五本の指だけを電気は火花を散らしながら巡っていく。
空気の重みすら感じられるような部屋の中で、重力に従って細胞も下に落ち込んでいく。背中の肉と皮の隙間に沈澱した細胞の重みが解る。細胞、それとも体液に硫酸でも含んでいるものがあるのか、ぬるりと背中の薄い皮膚は溶かされ、シーツとの境が解らなくなる。そもそも境などあったのだろうか。一体化してしまっているような、自分という境界が曖昧になっている。それでも白いシーツに溶け込んで更に下に沈んでいく細胞。何処に落ちて溜まるのだろう。
全てが落ちていく閉じられた空間、その中で黒いスーツに身を包み二本の足で真っ直ぐに立っている後輩は浮いていた。その姿を認めた時に、喪服じゃあるまいし、縁起悪いなと口の端上げて笑ってみせた声は自分でも驚くくらいに弱々しくて、あぁ言わなきゃよかったと直ぐに後悔した。――その、直ぐ後に。貴方なんて勝手に死んでしまえばいいんです。筑紫は汚いものを吐き出すようにその言葉を吐き捨て、顔の直ぐ横に肘をついて笹塚の頭を抱え込むように覆い被さった。
触れそうで触れない紙一重。濡れた冷えた息が唇に触れて、本当に口付けを交わしているかのようで、あと少し自分が顎を上げればきっと筑紫の唇に触れるのだろう。けれども、しなかった。笹塚はそれをしなかった。簡単に出来る慰めのキスを、しかし今は簡単にしてはいけないのだろうと解っていた。筑紫にとって、恐らくその戯れは、己の心臓に向けられた銃の引き鉄を引かれる事と同じだった。
触れた途端、それよりも早く触れようとする意思を悟られた途端にか、筑紫はきっと自分を生涯憎むだろう。軽蔑するだろう。その躰が呼吸をしなくなり唯の肉の塊になり少し赤みがかった生成りの骨にならない限り、筑紫候平という男は自分を忘れないだろう。忘れられないだろう。
筑紫の記憶に癒える事のない、死ぬまで膿み続ける醜い傷跡を付けるだろう行為を想像しただけで、心臓が赤子にぎゅっと握られたように震えた。触れれば柔らかいままの肉、流れ続ける血、まるで熟れて割けた果実のような傷口を知っている。どんなに、――どんなに、甘いだろう。
伏せられた眼は何を映しているのか。濡れた睫毛が震えていた、それだけは見えた。今は雨が降っているのか、そう意識を向けて、初めて篠突くような雨が外で降っている事に気付いた。あんまり静寂が過ぎるので気付かなかった。沈黙がはちきれんばかりに充満して外の音を弾き出してしまっていたのだろうか。触れる呼気の温度の低さもその所為なのだろう。
戦慄く唇は何かを躰の中に押し留めようとするように一筋に引き締められ、奥歯が堪えるようにぎりっと噛み締められた音を聞いた。それでも両耳に触れた腕は未だ小刻みに震えているのを、感じていた。
意思や理性で抑える事の出来ない感情が躰の端々から漏れ出ていて、まるで罅割れた器のようで、いっそ壊してやった方が自分も相手も清々するだろう。未だ容があるからこそ固執する。直せば未だ大丈夫なのだと錯覚させる。どんなに漏れ出る感情を抑え込もうとしても、直ぐにまた異なる場所から迸るのに。延々と続けられる修復作業。きりが無い。終わりが見えない。ならば。
笹塚はそっと腕を持ち上げた。ばち、指先で爆ぜた微弱な電気は、手首辺りで正常の電気信号に合流した。必死に自分の中に押し留めようとしている後輩の無意味で健気な努力を、蟻でも踏み潰すかのように踏み躙ってしまった方が、互いの為だ。跡形も無く粉々にその罅だらけの器を壊してやれば、もう構う事はしないだろう。少しだけ、顎を上げれば。少しだけ、頬を摺り寄せれば。あと少しだけ、この腕を動かしてその肩を抱いてやれば。少しだけ、少しだけ。
持ち上げた腕、そのまま重なった筑紫の少しばかり雨に濡れた広い肩を抱こうとして、逡巡の後、彷徨った指は爪の先が触れる寸前に止まり。――どうして筑紫に自分から手を切らせたがっているのだろうと、そこに自分の浅墓な執着心を見て、見てしまって――また、下ろした。行き場を失くした腕を元の場所、シーツの波に何事も無かったように静かに潜り込ませる。宿していた破壊願望の微熱を拭うかのように、指先を擦った。
いっそ壊してやった方がなんて、筑紫から零れる感情に気付くのは、気付こうとしているからだ。意識を向けているからだ。こんなところまで来て未だに、何の役にも立たないところにまで神経を張り巡らせている自分はどれだけの道化師か。笹塚は自虐した。今自分に覆い被さっている男より、余程救えない。
貴方なんて勝手に死んでしまえばいいんです。肩口に顔を沈め、再びの言葉は、今度はそのものが震えていて。涙とか怒りだとかそういったものに滲んだ声は、普段感情を表に出さない性分の筑紫の感情の昂りを如実に表していた。
どうしてお前がそこで震えるんだと言おうと思ったが、きっと筑紫のその言葉は賭けだったのだろうと思うとかける言葉が無かった。
ずっと考えていたに違いない、その言葉がどれだけ自分に効き目があるのかどうかを。
そして解ったのだろう、その言葉は自分にとって最早弾丸でも刃でもない、唯の音の塊に過ぎないのだと。
言った本人も傷つく諸刃の剣の言葉など、否、言った本人しか傷つかなかったのだから、諸刃ですらない。それは片道分の燃料しか積まずに特攻せざるを得なかった、愚かな国に翻弄された哀れな者のがむしゃらさを彷彿させた。
――それでいけば、愚かな者は、自分の事か。笹塚は口元を歪めた。愚か者は、自分だ。歪んだそれはまるで嘲笑にも似て、同時に表情を忘れた人間が無理矢理顔面の筋肉を動かした結果に過ぎなかった。
何でお前はそんなに優しいんだろうな。優し過ぎていっそ憎らしいくらいだよ。
歪んだ心が思い、歪んだ唇が紡いだ言葉は矢張り歪んでいて、笹塚はそれ以上に優しい言葉を知らなかった。それ以外は全てもっときっと酷く筑紫を傷つける言葉だった。甘い言葉だった。言いたい言葉だった。
笹塚の肩口に埋められていた顔が僅かに上げられ、かちりと数字錠が合ったように視線が合わさった。
……でも、貴方は、俺を憎んですらくれないでしょう。
沈んだ空気を切り裂いた視線は間違いなく笹塚を責めていた。これまでもこれからも笹塚を責める眼だった。
絵石屋事件後でもそうでなくても