魔人探偵脳噛ネウロ

溢れ零れて満ち満ちて

貴方は囚われてはくれないのね。


世界で一番美しい歌を歌う女は綺麗に笑った。
光の陰影、顔に落ちる影はアルカイック・スマイルを一層濃くしていた。
まるで東洋の菩薩か西洋の女神か、どこまでも静謐で凍結し透徹した微笑。
版画で彫られたよう白と黒の均衡は、少し配分を間違えれば闇に沈み込みそうでもあったし、光で眩しく見えなくなりそうでもあった。
そのぎりぎりの緊張線上の笑み。
自分がどうすれば美しく見えるのか解っている、そういう女の笑みだ。
「貴方は、私と同じだと思ったのだけど、」
セイレーンの赤い唇は歌うように囁いて、囁くように囀った。
ソファにその細い躰を沈め、優美に組まれた白磁の腕には瑕疵一つなく痣も黒子も一つもなく、それが酷く作り物めいていて、初めて会った時に容にならない違和感未満の懸念を覚えた。
「……俺は歌は聞かないんで、」
だから貴女の歌も、申し訳ないけれど。
女の視線を背中越しに受け、ちらりと視線を走らせただけで直ぐに手元の資料に戻して返せば、そうなの、その背中を撫でるような這うような、女の唇から羽根を持った蛇の言葉。「それは残念ね」

――ばれている、嘘が。

嘘を吐いた事がばれていると悟った。
資料を一枚、捲る。
嘘だ。
聞いた事がある。
一度ならず何度も。
石垣が何度も車の中で流していたから。
黙っていたからか、何度も飽きる事なく流していた。
耳から侵入してきたその女の歌は、狂気だった。
凶器だったかもしれない。
耳に押し付けられた銃に、そのまま撃ち抜かれたような。
同にして異、異にして同だ、と。
撃ち抜かれた際の轟音が尾を引いて躰の中に響く中、思ったのだ。
同にして異、異にして同。


この女と自分は同じだと。



「――貴方は、一人でしょう?」



躊躇いなく、急所に刃を突き立ててくる。
女に視線だけ投げた。「……そう見えるんなら、そうなんでしょう」
あぁ、不躾だったかしら、女は悪魔が企み事をする時に見せるような卑しさを裏に、天使が福音を鳴らす際に浮かべるような清廉さを表に、笑みを湛えた。
「面と向かっている、よりも、背中を合わすような感じの人と初めて会ったものだから、突っかかってしまうの」
ごめんなさいね。
この悪魔は惑わす事をしない、唯突きつけてくる。
眼の前に極上の甘露をぶら下げて、もぐか食らうか唾を呑んで我慢するか、全てを自身の判断に因らせるのだ。
それで死のうが狂おうが、結局は全て自身の責任になる。
誰にもこの悪魔を責める事は出来ない、いや、この悪魔は悪魔ではない。
誰にも糺す事は出来ない。

この天使の顔をした最も邪悪な人間を。


「――俺は、一人じゃありませんよ」

――甘露を、払い落とした。「俺は一人じゃない」
あら、口元に折れそうに細い指を添え、少しだけ驚いた顔をして見せた。「一人じゃないの……?」
無邪気な悪意に満ちた女に向き直り、静かに突き放した。
「貴女だって一人ではあっても独りではないでしょう」
真正面からぶつけられる視線を、己の眼の中に沈み込ませるように受け止める。
「貴女は周囲に人がいる事によって、一人きりになる人間でしょう、」
――セイレーンに乗せられている、思った。
「はなから周囲に人がいない人間は、自身の事を一人だと思わない」
いつになく饒舌な自分に、この女は人間であってもセイレーンの声を宿しているのだと思った。
心と咽喉に、潤沢を帯びた馨しいオリーブオイルを流し込まれた。
歯止めが効かない、滑るように言葉は躰の外に落ちていく。

「――俺は、どこまでも独りなんだ、」

全盲だった人間が開眼手術を受けた後、初めて世界を「見た」時、彼らは言う。
「何も見えない」と。
光に満ち溢れ過ぎて、そこに彼らは影を見出せない、即ち、それは、モノを見出せない、事。
影を認識出来なければ、幾ら眼が見えるようになっても見えないのだ。
どうして眼が見えるのに何も見えないなどと言うのは、それはもう自身が光と影の差異を当然としているからで、比較対照をいわば訓練されてきたから。
この世には、対称が在って初めて認識出来る事ばかりが多過ぎて。
――同にして異、異にして同、確かに。
この女と自分は背中合わせだ。
誰にも近寄らせない、誰にも開かない、そうしたらもう誰も周囲にいなくなる、だから、もう一人にはなれない。
どこまでも独りで在る事しか出来ない。
周囲に依った一人であるという事。
唯独りだという事。
対称のない世界。
自分しかいないという概念、自分がいるだけという概念ではなく。
しか、も、だけ、もない。

屹立している。

その、決定的な差を、この女は知らない。


「――あなたは、そう、」
独りなの。
柔らかいだろうその舌の上、飴でも乗せるかのようにころりと独りという言葉を転がした。

「独りなの」

それじゃあ、私の歌に囚われないのも無理ないかもしれないわ。
くい、と。
微かに、寸分の狂いもなく対称に両の口の端を上げた。
口の中にじんわりと甘露が湧き出るように、微笑は整った顔に広がり、浸透した。
まるで聖母が我が子を抱いて、慈しみ労わり、そして愛した、その場面をそっくりそのまま写し取ったような。
ぞっとするほど穏やかな、漣一つ立たない空気の中で、セイレーンは微笑んでいた。
今まで均衡を保っていた白と黒が微かに崩れて、その笑みは影に呑み込まれていた。


笹塚とアヤ・エイジア。刑事は歌姫を疑いながらも沈黙する。

(20060416)