魔人探偵脳噛ネウロ

恋愛剥離

何だか寂しいなぁって思ったんですよね。筑紫は子供のように縁がはっきりした黒い眼に、薄い悲しみの色を映していた。「そりゃ、最近おかしな人間が徘徊しては事件を起こしているから……というのは、解ってますけど、」
事務室で外来者手続きする時に、教員室に行きたいだけなのに、何先生に会いに行くのかはっきりして下さいなんて言われてしまって。そんな、誰か一人に絞ったら、取り敢えず名指しされた先生は俺の相手しないわけにいかないじゃないですか。しかも帰る時間まで最初の受付で聞かれるんですよ。カラオケじゃあるまいし。
――最近、高校に顔出してないなぁと話題を振ったら、俺つい先日、高校の時に世話になった先生方に会いに行ったんですけど、筑紫は話し始めた。
授業が入っていない時には、笹塚も筑紫も校舎の裏手、建物の影になりそうでならない人気の無いベンチで本を読んだり寝ているのが習慣になっていて、今日もまた然りだった。
まだ黄色みが強い若く浅い色をした緑は、陽の光に透けて葉脈も見えそうなくらいだったが、幾重にも折り重なって柔らかな影をベンチに落としていた。暗過ぎず明る過ぎず、丁度いいくらいの木漏れ日の下、二人は遅い昼食を取っていた。春の気紛れな陽気、移動性高気圧の恩恵は今日まで、明日以降はまた天気が崩れるだろう。ずっとその繰り返しだ。
まあなぁ、相槌を打ちながら笹塚は妹の事を考えた。確かに近頃は錯乱した人間が校舎内に侵入して生徒や教諭を殺傷する事件が多い。それなりに気をつけて欲しいと思うし、打てる手は打っておいて欲しいと思う。そもそも学校側にしても、外来の人間の身元目的をはっきりさせておかなければ、もしもの時に避難轟々だろう。――が。
「……これから生徒殺傷しに行きますなんて人間が、そもそも事務室行くはずないよな」
「そんな律儀な殺人者は滅多にいませんね」
どうにも警戒する方向を間違えている気がする。事務室に外来証を貰いに来た時点で、ある程度警戒を解かれてもいいような気がする。裏を掻いて事務室から外来証を受け取った上で不埒な行為を行う輩もいるだろうが。だが、それでも筑紫を見ればそんな事をしない人間だと解りそうなものだ。見かけに判断の寄りどころを求め過ぎるのは誤りだが、この男は外見に律儀な性格がありありと窺える。
第一高校生にもなれば、校舎内に見慣れない者がいれば警戒するだろうし、警戒しないまでも近付きはしないだろう。蚊一匹殺すのに殺虫剤振りまくような過敏な対応だ。振りまいている自分や周囲の人間にばかり害が及ぶ。随分と非効率的で、それが公務員の限界、お役所仕事って奴だよと笹塚は諭すような口振りで、宥めるように、仕方がないのだと暗に告げた。
「……でも、お前が悲しく思った理由はそれだけじゃないだろ?」
筑紫の眼に浮かんだ悲しみは様々な色彩が混在していて、まるで葉がつくる影のように幾重にも重なり、透けて、深い色になっていた。それは、母校の事務の人間に信用して貰えなかった悲しみだけではなく、以前は一員だった集団に入れなかった――除け者、疎外された悲しみの色だった。すっきりした目元ながらも、くるりと収められた大型犬のように人懐こく、賢そうな筑紫の眼。その瞳が本当に犬のように悲しみに揺れて濡れているのを見逃すほど疎い人間ではなかった。
笹塚の優しく肩を抱き締めるような口調に、筑紫は笹塚さんには隠し切れませんね、悲しみを誤魔化すようにはにかんだ。
「……昔は制服を着ていれば、それだけで良かったのに、卒業して制服を脱いだ途端に部外者扱いされたのが、結構ショックだったんです」
確かに自分はその集団の一員だった。そしてその集団を出た。当然に。それでも、そこはやはり自分がいた集団で、愛着もあった、親しみもあった。一時は塒にしていた、言わば外の世界での住処、帰属意識の寄りどころだった。
しかし、集団は既に自分を部外者だと認識していた。身元を確認し、目的を糺し、部外者証なんてものを着けさせる。自分は既に集団の一員ではないのだと、知らしめられた。「――感傷過ぎるきらいがあると自分でも思うんですが、」
照れ隠しなのか、少し俯いて話す筑紫の頭に、笹塚はぽんと手を乗せた。そのまま、労るように優しく柔らかく、頭を撫で回した。
「――笹塚さん?」
顔を上げれば視界ど真ん中、絹が解けたような極上の笑みを浮かべた顔。唇の薄い赤がぴったり左右対称に吊り上げられた、爛漫でもなく慈愛に満ちてるでもなく、唯綺麗だとしか思えない、綻びなど一切ない至上の笑み。
「――お前みたいに素直で心が汚れてない良い奴は、そのまんまでいて欲しいな、」
俺みたいにはなるなよ? 羽根で撫でるようにふわりふわりと筑紫の頭を撫でながら、笑ったまま言った。「確かに感傷的な気も無きにしも非ずだけど、」
それだけ愛着を持てる場があったのは、恵まれてるよ。「――会いに行った先生は、筑紫を喜んで迎えてくれたんだろ?」
笹塚の笑顔に気を取られ、ただ一回、縦に首を小さく振った。そう、確かに久し振りに会いに来た自分を歓迎してくれた。飲みにも行った。――自分を教え子として、変わらない態度で接してくれた。
「――先生方は、変わってませんでした」
だろう、筑紫の言葉に頷き、撫でていた手を離した。「事務室の人間はそれが仕事だから仕方無い。でもさ、」
それだけに囚われてたら、他の大事な事を見逃したり、二の次にしてしまったりするもんだから。頬杖を付いて、溶けるように眼を細めた。空気まで和らいだ気がした。
「余程良い時間を過ごしたんだな」
お前にとって、ここもそういう場になる事を願うよ。
包まれるような陽気の中、まるで天に祈るかのように、息を吐き出すのと同じくらいに自然に発せられた言葉に、もうなっています、詰まった咽喉の奥で返した。――もう、ここは大切な場所です。
眼の前の男の髪が、あんまり色素が薄いので陽の光に反射して眩しくて、だから眼を少しだけ逸らした。ざわざわと葉がそよ風に揺れて、だから共鳴して心の中が少しだけざわめいた。そういう事にした。


学生時代。

(20060411)