魔人探偵脳噛ネウロ

解らぬままに交わされる別れの挨拶を

ワープロで促音拗音が打ち出せないのだと妹が零した事があった。「友達にその度に小さい文字出してもらって、五行打つのに二時間かかった」 そんなの後ろのアルファベッド重ねればいいじゃないか。ローマ字表記そのままだろ。「だった、って打ちたいなら、dattaって打てばいいだけだろ」 言えば、ぽかんと鳩が豆鉄砲食らったみたいに自分を見上げていた。「アニキ頭良いー……!!」 その時はお前バッカだなぁと笑った。だって笑えたから。笑う事を知っていたから。今はもう笑えない。


猥褻本なんか読んじゃいないだろうな、突然後ろから覗き込んできた少々失礼な先輩に「学食でそんな本読む人間がどこにいるんですか」 毎度の溜息を吐きながら返すと、隣の椅子を引いて座ったその人は、「ここに、」 言って鞄の中から一冊、半裸の女性が表紙の雑誌――豊満な胸を露わに、大きく仰け反りながらも視線は挑発するように見る者に投げてくる外国女性である事は判った――を覗かせた。「――っ!!!!」 堪らず反射的に鞄の口を押さえると、「筑紫カワイーなぁ」 ニヤニヤしながら意地悪な視線を寄越した。揶揄われた事は直ぐに解ったが、金魚みたいに口をパクパクさせるだけで何も言えなかった。


WOWOWで再放送している番組で見たいものがあるというので、そしてうちはそれが見れたので、何ですかと問うたら『1983年版の大奥』と事も無げに彼は言った。「……また、コアな」 「それがコアだと知っているお前も十分コアな人間だよ」 母親が好きで見ているので、自分も何気なく見ているのだと言えずに押し黙る。脳内、対笹塚用に特化した思考回路が、揶揄われる確率は百パーセントだと弾き出していた。


和英辞典に――というより、英語表現にない日本語なんてざらにある。間が悪い。恰好が付かない。無理矢理当てはめているものもあるけれど、少しばかり違った意味になっているものも多い。そういう語彙の中で、日本語で知っていて良かったと思えるものがある。笹塚と笛吹、今日も二人の立場を慮りながらも、この三人でいる時間は嫌いじゃなかった。


和音、調和か不協か二つに一つ。では可もなく不可もない和音は存在するのだろうか。音楽に詳しくない自分は、何にでも詳しい……というより、何にでも興味を抱いた結果として詳しくなった先輩に、何となく聞いてみた。「――ピタゴラスを学べばいいよ」 いきなり音楽から数学の話を持ち出されてその落差に困惑するも、音楽家にピタゴラスと言う人物がいたのだろうと戸惑いを修正した。ら、「言っとくけどピタゴラスなんて音楽家はいたかもしれなくても、その人を指して言ってるわけじゃないから」 速攻否定された。「プラトンにも多大なる影響を及ぼし、自らの主張を自らの定理によって否定する事になった挙句、それを指摘した弟子を暗殺したとまで言われてる、生のそら豆食べて死んだピタゴラスだからな」 その賞賛してるんだか莫迦にしてるんだか解らない紹介は要らないんですが、という一言をぐっと飲み込み、「……つまりは哲学者にして数学者のピタゴラスですか、」 要約すると、「そういう事」 まぁ、それ以外にも参考にすべき書物も人物もいるけれどな。競馬新聞片手に話す内容としてこれほどそぐわないものも珍しい、筑紫はくるくると回される赤ペンの先を見ながら思った。「それにしても、筑紫は俺を上手くあしらうようになってきたな」 どこがですか、反射で出た言葉に、「そういうところ」 ははっと白い歯を見せる笹塚に、自分の方こそ上手くあしらわれている。


若い時は無謀だった。若くない今は無力だった。


和気藹々とした空間は、助手だという怪しげな男と不思議と事件の真相を看破する女子高生の二人で構成されていた。どつき漫才にしては度が過ぎるきらいもあるが、しかもどこか火口の真上で綱渡りした後のような緊張状態の名残りもあるにはあるが、それでも自分には縁のない世界の空間だと思った。


枠組みに囚われない自由な発想が羨ましかった。枠組みに囚われた不器用な真面目さがいじらしかった。そして枠組みを壊せないでどこまでも二人に不誠実な自分が疎ましいばかり。


訳もなく後輩の背中に人差し指で適当な文字を書いてみた。そうしたら薄生地の服の下、びくりと筋肉が緊張し躰が跳ねたので、感じたかと茶化したら誘ったんですかと振り向いて生意気に返してきた。俺はまどろっこしい誘い方はしない、……つもりなんだけど。どうなのだろう、筑紫からしてみれば遠回しに誘っているんだろうか。「どう思うよ?」 ……それを俺に聞くんですか? 更に問い返されて、まぁそうだよな。筑紫の言い分はもっともで、さて。ここは一つ単刀直入「――セックスすっか?」 ――な誘い方で挽回してみる。と。また……、後輩の顔に苦笑いが広がった「いっそ潔い誘い方ですね」 慎ましやかな誘い方が好きならそうするけど、探るように言えば、「笹塚さんに慎ましやかっていう言葉は似合わないですよね」 非常に無礼な発言だったので、右の耳を思い切り――いきたかったけれどここは穏便に、軽く噛んでやった。


輪ゴムを小指に引っ掛け、そのまま手の甲、親指をぐるっと回って人差し指の爪に引っ掛ける。子供の頃によく遊んだだろ、輪ゴムのピストル。銃となった右手、銃口は自分の背後の白いばかりの壁に向けられ、左手には缶ビール。酔ってますかと聞いても、こんな酒で酔えないよと口だけで自嘲気味に笑った。でも以前の彼は、その酒で酔う事もままあった。酔えなくなったのは、酒の安さの所為ではない事を知っている。


山葵が苦手だと笛吹が文句を言うので山葵抜きでと注文しようとすると止められた。「……寿司ネタでわざわざ山葵を抜いてもらうようなお子様味覚だと思われてしまったらどうしてくれるんだ!!?」 よく解らない所でも遺憾なく発揮される彼の自尊心、取り敢えずは自身がお子様味覚だという事を自覚しているらしい事だけは判明したが、「……別に誰が食べるって事は向こうさんには判らないし興味もないと思うけど、」 ぐっと詰まった隙にカウンターの向こう、素早く山葵を抜くように頼んでしまう。「……大将頼むな、コイツ山葵苦手なんだとさ、」「き、貴様……!!!!」 この卑怯者が……!! 歯軋りして心底恨みがましい眼で笹塚を睨む笛吹、その二人を本当に子供みたいな人達だな、笛吹の隣の席、口を挟む余裕もなかったので一人静観していた筑紫は思った。


和式の個室じゃやらないよな。洋式じゃよくやるけど。――反応が、遅れた。いきなり、下世話な話に飛んだ。「スペース的には和式の方が広いような気もするけど、やっぱ足元気になるからか、それとも別の意味があるのか」 どう思う、筑紫? 法律の問題集片手に、少し上目使いでそんな事いきなり聞かれても私見を述べるなんて出来やしなくて、そもそもそんな事に対しての私見なんて持っていなくて、というか考えた事すらなくて。何故和式でやらないかだって? 足場が気になるのもそうだし雰囲気とかもあるだろうし、いや、というか足場の問題が一番だろう、突っ込んだらもうそこで萎えるだろうし二人の関係も萎えるし……って何で俺こんな事考えてんだ? ぐるぐる回る思考、そもそものおかしさに気付き、はっと眼の前の男に意識を戻せば、何とか声を出さない事に全集中力・全神経を費やしているだろう、背中をを丸め、両腕で腹を抱えながら笑い転げる笹塚の姿があった。


忘れてしまった事実を、忘れられなかった事象を、忘れさせてくれなかったのは、青臭かった頃の自分自身。


早生苺ですけどよかったらどうぞ。玄関で筑紫が軽くビニール袋を持ち上げてみせた。温室栽培が一般化している中、敢えて早生だと言う筑紫の律儀さが少しおかしかったが、瑞々しく甘い匂いに混じる微かな酸味、鼻腔をを擽った自然の恵みの匂いに、あぁ、どうりで甘い匂いがすると思った、言いながら笹塚は自分の周りを占めていた書籍類をベッドの下に退け、何とか一人分のスペースを確保すると、筑紫にその場所を指し示した。「悪いな、相変わらず片付いてなくて」 苺は台所に置いておけばいいですか――もう勝手知ったる部屋となった笹塚の住まい、先にそちらに足を向けたのを見て、ちょっと待て、止めて後ろからひょいと手が伸ばした。血管が透けて見えそうな腕、指先は器用にパックの隙間から一つ苺を撮み出した。白い指が摘んだ、浅い赤、少し小さな苺。そのまま、瑞々しく光る赤を一口齧る。歯が食い込んだ途端にじわり、滲みるように口の中に広がる甘味、少しばかり舌に残る酸味。「――うん、こういう甘酸っぱさ好きなんだ、」 これ、お袋さんからだろ、有難う御座いましたって、お礼言っといてくれよ? 残りを口に放り込み、親指に付いた果汁をぺろりと舐めて笹塚は筑紫を見上げた。「……筑紫?」 じっ、と一連の動きを凝視していた筑紫の視線を真正面で受け止めると、その視線は融けると同時に逸らされて、たちまち慌てた声で「あ、はい、ちゃんと伝えておきます、えぇ」 しどろもどろの返答だった。「どうした?」 どこか調子でも悪いのか、と。向き直り、手を額に当てようと伸ばせば、触れる寸前にばっと躰が離れた。「――筑、」 「俺、帰ります」 言葉を遮り、そのまま筑紫は躰を反転させて玄関に向かった。「ちょ、どうしたんだよ筑紫」 いつにない筑紫の行動に柄にもなく戸惑い、何か自分は拙い事をしてしまったのかと更に言葉を継ごうとした矢先、「――これ、どうぞ、」 眼の前に突き出されたビニール袋、中にある苺を、「あ、あぁ、」 深く考えもせずに受け取った。嗅覚を直撃した咽返るような甘酸っぱい匂いに思考が巻き込まれた瞬間、「それじゃ、また伺います、」 手元の苺に注意を向けた僅かな隙に、筑紫は素早い身のこなしで玄関を開けて出て行ってしまった。「――ちょ、」 声を発した時には既に遅く、一人、苺の――早生にしては随分と濃厚な匂いだと今更思いながら、その只中に佇んでいた。


和装が似合う体型だなと言われて、今度一緒に祭行くか、そんでお前浴衣着て来いよ、絶対似合うって。随分と一方的な物言いだったので、笹塚さんは着て来ないんですか、浴衣。問い返すと、彼は俺は駄目、浴衣似合わないんだと肩を竦めた。「髪もこんな色だし、躰が薄いから浴衣着ても見栄えしないんだよ、」 その点お前は浴衣着ると映えるだろうな、肩もしっかりしてるし、胸板厚いし、背も高いしで申し分ないよ。両の肩から腕まで、筋肉の付き方を確かめるように撫で下ろしながら「浴衣は似合う奴が着ると、男は恰好良いって言うより色気が出るよな」 だから、な、着てみろよ? 普段変化球ばかり投げて攻めてくる人間が、やたらと直球で勧めてくるのが多少気になりはしたものの、それだけ邪心がないって事なんだろうかと前向きに捉え直して「まぁ、それじゃ機会ありましたら、」 着てみます。言った途端、ほんとか、約束だぞ!? それは本当に嬉しそうな笑顔で、楽しみだなぁなんて言ってくれるものだから、少しばかり浴衣の着こなしについての本でも借りて読もうかなと、満更でもなく考えた。


綿に水を含ませて小鳥に吸わせるのは知られた話。針金の躰だが乳が出るようにしたものと、毛布の躰だが乳が出ないもの。親を亡くした小猿は腹が空けば針金の躰に抱きつき乳を吸ったが、それ以外の時は毛布の躰にしがみついて離れなかった。――それを聞いた時、自分は何故だかあの太陽に透けそうなほど薄い色素、低血圧の年上の男を思い浮かべたのだ。


輪違屋という店が、京都島原にあるのだと言う。今もいちげんさんお断りと言う昔ながらの営業方法で、現在、唯一太夫がいるのだと。天皇に謁見できる位を持っていた太夫という存在。正五位の遊女、いや、遊女と言う事すら憚られる、躰以上に芸と教養と駆け引きそのものを売る事を許され、求められた、そういう存在。「お前も結構そうだな」 そこまで気位が高いわけじゃねぇが。素早い動作で服を身に着けながら、暇潰しなのか何なのか、男はそんな事を言った。そんな存在に重ねられるのは甚だ心外で、……俺は道中も何もしないけど、ベッドから身を起こしながら枕元に放り出されていた煙草に手を伸ばした。「……大体一見客をお断りできるような大層な身分じゃない、」 一本抜いて無意識、特段の意味もなく男を見やれば、彼はライターを差し出した。かちりと点けられた火、煙草を咥えて口を寄せる。橙にちらついた先、火が点いたのを見て顔を離せば、にたりといやらしく笑って自分を見る顔がそこにはあった。「手練手管駆使して、自分に都合の良い事を引き出す、それが太夫ってもんだが、」 お前は駆使するわけでもなしに、自分の都合良く周りを動かすからな、――余計にタチが悪い。身を翻し、手櫛で髪を整えながら背中越し、タダより高いモンはないって言うが、お前はその典型みてぇな奴だ、見えない顔は、きっとしたり顔だろう。


割ってしまったコップ、走った亀裂、飛び散った破片。台所の床に叩きつけられ、甲高い悲鳴を上げた。――砕け散ったそれは、最早原型に戻す事は適わないだろう。すみません、慌てて大きな欠片から拾おうとすると、筑紫、いいから、ちりとりで片付けるから。部屋の主に止められた。硝子はしぶといから大丈夫だって。……しぶとい? そんな形容詞、硝子に対しては初めて聞いた。自分の怪訝な顔に気付いた彼は、だって融かせばまた同じ形にもまた別の形にもなれるじゃないか。しぶといよ、硝子は。――そんな変な見方をする人間は、初めてだった。


わて。主に関西方面での一人称。「その土地の言葉を上手く小説に盛り込めるのって凄いよな」 今度から俺も一人称わてにしようかなぁ、わしとかでもいいよなぁ。冗談なのか本気なのか酒の酔いに任せているのか、取り敢えず関西言葉を遣う笹塚を一人想像してみた。――色々なものが綯い交ぜになって、頭の中には博打打ちの笹塚だったり置屋の笹塚だったり麻雀代打ちの笹塚だったり黒の縦縞のユニフォーム・六甲颪を歌いながら道頓堀に飛び込む笹塚がいて、兎にも角にも自分も酔っている事を確認するだけになった。


ワトソンとホームズ。ホームズとワトソン。どちらも同じで、それでも違う。思えばワトソンも相当な変人だ。変人の友人は変人なのだ。類は友を呼ぶ。「笹塚ああぁぁあっ」 廊下に響きわたる先輩の声に、今日も平和を感じてしまう自分も相当に変人なのだろう。


戦慄き、青筋立った拳に重ねられた、ちゃんと血が通っているのか不安になるくらい青白い手指。「落ち着け、」 筑紫、と。躰の血が沸点を越えたかのような怒りを静めるように囁かれた言葉に、どうやって落ち着けって言うんですか。昂ぶったままマジックミラーの向こう、尊大な態度で審判を受ける少年と、自分達の何処がいけないのかと開き直っている家族を睨んだ。通常見る事は出来ない、少年犯罪の審判の様子。どうして、どうして何人もの女性を強姦しておいてあんな態度でいられるんですか、本人も家族も周りの検察も裁判官も全員、何で。激高する自分に筑紫、俺らはまだ何の権限もない学生に過ぎない。今ここで感情を荒げても、この審判において何の意味もない。冷静に言い放つ隣の男に、それでも、尚言い募ろうとして振り向けば、「……筑紫、」 感情で動くな、それでも感情は殺すな、――それを、忘れるな。鏡の向こう、椅子にだらしなく腰掛ける少年から一寸も視線を逸らさず、押し殺した声で静かに、これ以上ないくらいに静かに空気一つ動かさずに言った男の横顔を、多分一生忘れる事はない。


輪になって作戦会議。「これ以上深追いしない方がいいですよ」「……そうか?」「えぇ、だってもうあちらさんも懲りたでしょうし、やり過ぎると別の形で報復してくるかも……」「甘いな」「甘過ぎるぞ、筑紫」 ――完膚なきまでに叩き潰す。二人の声がぴたりと重なり、向けた視線の先にはイカサマ賭博を仕出かしていた五人組――またそいつらにいいようにカモにされていたのがゼミの大人しいが真面目な後輩で、真面目だからこそうっかり嵌ってしまったのだろうが――が、互いの財布の中を確認しあっていた。「毟れるだけ毟って出すとこ出してやる」 舌舐めずりしながら眼を爛々に光らせる先輩に、「正々堂々、相手の土俵で叩きのめしてこそ意味がある!!」 変な公平精神に満ち満ち溢れ、正義感に燃える眼をした先輩。この二人、目指す所は異なるも出発点が同じだからか、やたらと今夜は勝負の息が合った。――これは、帰る頃には赤いランプの車が下に着いている状況も考えておいた方がいいな。一人、筑紫は様々な状況に応じたシミュレーションを始めた。


輪抜けするにはちょっと躰でかいし重いな、俺は。テレビに映った中国の雑技団のまだ就学前くらいの少女軽業師を見ながら笹塚は零した。「ああいうの好きなんだけどさ、」 ――これが笹塚の発言でなかったら、幼児性愛者なのかと疑うかもしれなかったが、彼の場合は単純に輪抜けだとか縄抜けだとかが好きなだけなのだと解っていたので、相変わらずですねと笑った。


侘しい部屋だと思った。殺風景、というより、侘しい、部屋。何というか、生活感はもとより、生気が全く感じられない、何かが動く気配も無く、じっと部屋の隅に膝を抱えて蹲っている何かがあるようにも思えるのだけれど、それが動く様子も無く。形に無い何かが、思念のようなそういった強い何かが、残り留まり澱んで充満していた。ずっとここには、ここでは、何かが立ち止まったままなのだ。


和平交渉決裂だな。厳かな宣言に、そのようですね。自分も出来る限り平静を装って応じた。それじゃ、筑紫、――開戦、だな。回避出来なかった最悪の事態に、眩暈がした。「容赦は、一切しない」 覚悟しとけ――彼の手元にあるのはトランプ。ブラックジャック、掛け金は五からいくからな。ごくりと生唾を飲み込み、受けて立ちます――腹を括った。


笑う顔がとても好きだったので自分も自然笑ってそれでそのままキスなんかしてみると後輩は酷く慣れないのか戸惑って直ぐに離そうとするので追って更に深く舌を入れてみたり。受け身が下手でされるのは不得手だと判ったのであくまで誘うように突付いては絡めて、絡み付いてくる舌から逃れて離れる振りをすればもう後は彼は自分を追ってそのまま雪崩れ込むように大きな掌で服の下を這い、素肌にごつり触れる硬い節くれ立った指が皮膚の薄い所を感じる所を攻め立ててくる。この後輩は案外卑怯な手を使うので、油断ならない男だと思う。


割に合わない仕事ですねとぼやいた、笹塚さんはそんな事言っちゃお仕舞いだと眼の高さにまで本を積み抱えて、えっちらおっちらと向こうの本棚からこちらの本棚へと移していた。民族大移動。無秩序の中に唯一見出せる法則は、全て自分達のゼミ教諭が買い集め・揃え・読んでそのまま放置したという事。その事実。これでバイト代も出してくれないのかと思うと泣けます。泣かないでくれ、俺はお前の眼に埃が入って流れた涙を拭ってやる事も舐めてやる事も出来ないぞ。序でにハンカチもマスク代わりにしてるから貸す事も出来ないのであしからず。無慈悲な返事に、ちょっと本気で泣きたくなった。


悪い男って言うのはお前さんの事を言うんだ。笹塚は視線を手に持ったコップに向けたまま、一言、言い放った。「お前は悪い男だよ」 純情な俺の心と躰を弄んだ挙句に捨てるんだ。定食屋のカウンター、口に運んだ生姜焼き、咀嚼数回でごくり、飲み下してしまった。「……いきなり、何を」 周囲の人間の視線が、自分に集中しているのが解りたくもないのに解ってしまった。皆食事を続けたり雑談している体を装っても、視線だけは誤魔化せない、少しばかり静まった店内、客は耳をそばだてて成り行きを窺っていた。唯でさえ学年一の秀才で、偏屈だが名の知られた老教授に気に入られている隣の席の男は、店内の色物を見るその妙な様子に気付いていないわけはなく、しかし全く気にしないままに言葉を継いだ。「――って男が言うのは興醒めするよな」「――は?」 状況が飲み込めない、というよりも、「いや、何か古今東西、男が言っても女が言っても、『心と躰を弄ぶ』なんてのは興醒めするよ、やっぱり」 うん、そうだよな。一人勝手に納得して、「――お前の生姜焼き一枚、貰って良い?」 筑紫の返事も待たずにひょい、綺麗な箸使いで取るとそのままぱくりと食べてしまう。周囲の視線もぶつんと切れて、またざわざわと店内に煩さが戻った。もうそれぞれが自身の場所に戻っている、その中で。――あれ、俺、もしかしなくても揶揄われましたか、え、笹塚さん? 脳内をぐるぐる回る疑問と混乱のメリーゴーランド。降りる事も出来ずに、笹塚に再び声を掛けられるまで、筑紫は一人暫く同じ場所を廻り続けていた。


我ながら改心の出来――手の上に乗せた鳥獣戦隊ギガレンジャーのトリレッドをまじまじ惚れ惚れと見つめていた。ら。「な、何するんすか先輩!!!!!!」 トリレッドはその見事な鶏冠を冠した頭を無情な男によってもぎ取られた。「トリアタマ……」「違うっスよ、それトリレッドの頭っ、その見事な鶏冠で解らないんスかああぁぁあぁ!!!」「だから鶏頭……しかも雄……」「先輩、低血圧なら低血圧らしく大人しくしてて下さいよ、何で仮眠直後にそんな理由なき暴力行為に走るんすかぁ――!」 折角上出来だったのにー!!!! 泣き叫ぶ石垣の頭に、トリレッドの変わり果てた姿、もがれた頭がコンと置かれた。赤い鶏冠が立派だぞ、そんな事を呟きながら笹塚はふらふらと洗顔に向かった。


わやにしてって方言なのかな。どうなんでしょう。笛吹どうなんだ。自分で調べろ。わやにしてもーて。わやにしてからにー。わやになるー。わやわやわやー。――あの、笹塚さ、――ああああ、くそ、気が散るから止めろ笹塚、わやにして、何だ、わやになるか!!? 調べてくるから黙って大人しく待っていろ!!! ――笛吹ってホントに扱い――良い奴だよな。今扱い易いって言おうとしたでしょう、笹塚さん。ばれた? ――本人の前では言わない方が吉ですよ、序でに言うなら、――わやにしての意味、知っているでしょう? ――笛吹って、人を使うのが上手いけど、人に使われる事も覚えた方がいいと思うんだよな。――貴方って人は……。


わわくなる人。彼の中に既に道理は無い。枉惑なる人。誑かすなんて火傷程度の事ではなくて、いっそもっと殺すくらいの勢いで外道の道を行かせて欲しいのに。わわくなる人。彼は決してそこまで道を踏み外させてくれない。


五十音作文終了。今回は兎に角思いつき・勢いで。

(20060404)