午前零時氷点下、三匹の犬と踊れ
その声の柔らかさに反吐が出そうになった。
何様のつもりだよと呟いた声は野良犬の唸り声にも似て、やたら感じなくてもいい敗北感、みたいな。
あぁ、身に沁みるのは冬の空気、きりきり締め付けてくる嫌な空気。
いっそこのまま眠れたら楽なんだろうと思うのだけれど、眼の前の男がにやにやと嫌らしく笑って見せるのでそりゃもうむかついてむかついて仕方がなかった。何だ、俺はそんな眼で見られる事を良しとはしない。妥協はしない。叩き潰す、その鼻へし折ってやる。あぁ寒い。怒りだけが腹を熱くする。でも寒い。
お前は使い捨てされても、またリサイクルで戻ってくるような気がするよ。4Rに適っている人間は好きなんだ。
そいつはにやりと犬歯を見せた。
(海を渡ってきた風は潮の匂いを強く広く振り撒いていた。)
(対峙する二つの長身の影、月は新月一歩手前、薄く尖った弓なり、濃藍の中に一点付けられた白い瑕疵。)
(照らし出したのは、互いの顔と、互いの手に握られた銃。自動と手動の差、僅かばかりの優位は、桁違いの経験の差で逆転していた。)
駄目だ
駄目だよ筑紫
お前の得物はそれじゃないだろう
現場の人間ですら年に一回の射撃練習さえロクに出来やしないのに
上の人間がマトモに扱えるわけない
(彼の手にもっとも馴染んでいるだろうニューナンブM60。警察官が持つものとしては一般的銃。)
(国産のもの。恐らく、彼が姿を消していた一年の間でも、きっとそれを使っていた。)
(大手を振って銃を携帯する事が出来る、そういう組織は限られて、)
(その中で、彼が警察という組織を選ぶだろう事は、確信だったのだから。)
筑紫、オレはお前を殺せるよ
筑紫、お前はオレを殺せないよ
お前には無理だ
お前の得物は、それじゃないだろう?
(10年前。S&W M37が採用され始める前。)
(比較的使い勝手が良いと言われるそれではなく、今でもニューナンブを使い続ける事の意味。)
(長身を包む黒いコートが風にはためいては翻り、彼の身を闇に溶け込ませるのに役立っていた。)
――単純に殺す事はしたくなくて、
――単純に殺される事もしたくなくて
――単純に、そう、このトチ狂った中で徹したいものがあるだけ
フェアに、何よりも誰よりも、フェアに殺したいだけだ
お前を
(彼は未だに10年前に、その心を置いているのだろうか?)
恐ろしく寒い夜の事をthree dog nightと言うのだと男は褥の中で紫煙を燻らせながら蜜事のように囁いた。暖房が効いているとはいえ、真冬の夜にいつまでも裸のままでいるのは二人添うようにして大きなベッドに身を沈めていたから。甘く、そして少し気怠げな事後の雰囲気など微塵もなく、唯セックスという衝動まかせの行為を終えた後の湿った空気ばかりが肌に触れた。
男は空いた手を伸ばして自分の髪を弄びながら、少しは学のある所を見せないとな、その台詞に最高学府を出たのだと何かの拍子に聞いた事を思い出した。あぁ先輩だったんですかと何気なく返した言葉に、お前が自分の事を話すなんて珍しいじゃねぇかと大袈裟に眼を見開いて驚いたような顔をしたから、覚えていたのかもしれない。日本の将来を担うべき人材が、揃いも揃って裏の将来を担う人材になっちまったわけか、笑うところなどないと思えたのに、酒と煙草で咽喉を潰した男の口から洩れたのは掠れた笑いだったので、今はきっと笑うところだったのだろうと一つ覚えた。この男の側で覚えるものは大概下らないものを笑うタイミングだった。相手の言を一笑に付しながら、そのままの流れで自分の意見を押し付ける、そういう時機。
「北米先住民社会が発祥らしいけどな、犬三匹抱き抱えて寝なきゃ堪えられないほど寒い夜……ってんだ」
学のある所を見せたいのは解ったが、何故突然言い出したのか。訝しげに少し眉根を寄せて男を見れば――こうすれば男は説明をしてくれるという事も習い覚えた――、煙草を指に挟んだまま自分の髪を幾度か、そう、それこそ犬の背を撫でるように流れに沿って梳いた。額から髪を後ろに撫で付けるようにそのまま後頭部、項、浮き出た頚椎。色の薄い髪がかかる青白い首筋に浮いて沈む骨は揉み解され、まるで舌で舐るかのようにねっとりと押し付けられる指の腹が、先ほどまでの微熱を残していた。しつこいようで、そのくせ後に残らない跡を残さない指は幾度もそのラインを辿る。頭に触れられるのは嫌いじゃない、皮膚を揉み解す強弱自在の指になされるがままで、何となく男の思考に見当をつけた。
「……俺は犬じゃないけど」
「お前が犬だったらどんだけ楽だろうによ」
手懐ける苦労なんざ端からなくて済む。間髪入れずに返されて、自分は男に手懐けられた覚えなどないと思ったのでそのまま伝えれば、そういう所がお前は面倒なんだよ、と。ちっとも面倒そうな顔を見せずに、頭を撫でていたその掌を頬に滑らせた。
「お前は面倒ばかりだよ」
飼っておくと便利でも、いつ噛み付くかもしれない。居ついている野良犬のくせに、飼われていない。指に挟んでいた煙草を咥えると目元、縁に線を引いた親指をすっと口に差し入れた。上唇を捲るように潜り込ませ、綺麗に並んだ歯をなぞる。指に柔らかく食い込む。白い牙で軽く押すと、そのまま食い千切ってくれるなよ、男は人差し指も突っ込んで上の歯茎をがつりと掴んだ。笑う男を冷えた眼で見返せば、そういう眼で見るなよ、矢張り笑いながら差し入れた指を抜いた。
間に唾液が一筋線を引いて、切れた。唇に残った唾液が気になって乱暴に手の甲で拭った。その様を見て、煙草を再び指に挟むと細く長く吐き出した。煙は揺蕩い、湿った空気に溶けながら上昇した。
「――お前みたいな奴は、またといないだろうな」
ましてや、三人も。その口調から褒め言葉なのか皮肉なのかは判断がつかずに、その曖昧な境界の延長線上で口の端を軽く上げた。――多分、笑うところだった。
「――ったく……、」
とんだ性悪になったもんだ。ざらりとした掠れた笑いを口元、煙草を挟んだ指の間から漏らしたので、アンタが意地悪だったからだ。一つ、唇に笑みを乗せたまま憎まれ口を返した。
早乙女金融+警視庁+裏社会。