その優しさで救われない
俺を否定するなら眼を見て言えと命令口調の投げやりな言葉に、くそ、駄目だ、俺はこの人を否定する事なんて心の底から否定して貶して有無を言わさずに叩くなんて真似は出来ように無い。その投げやりな口調は確信を持って投げやりだった。その投げやりな物言いですら自分を支配できると知っている傲岸不遜でどこまでも沈着冷静。曖昧模糊とした雰囲気風体でそれでも旗幟鮮明な言葉の鋭さは詐欺だと思った。
俺を見ろ。そして否定してみろ。何でそんなに命令口調なのか、否、どこでそんな口調を覚えてきてしまったのか、少なくとも自分の知る男は命令とは正反対の物言いをしていた。いつもそうだった。たとえこちらが逆らえないような事を言う時でさえ、その口調は柔らかく柔らかく真綿で首ではなく掌を包むような温かみを持っていたのに、今はどうだ。言葉を放り投げるような、意味も価値も何も無い音の塊を放り投げるような吐き出すような、下らないものを抱え込むのが面倒でそこに投げ棄てた、ような。
自分へ向けられた言葉が、男にとって欠片も大切でない事は明白で、今自分は嬲られていると感じた。袋小路突き当たり、猫が追い詰めた鼠を嬲るより残酷。このまま息の根を止められて方がどれだけ楽だろうに、彼は自分に話しかける以外の干渉をしてこなかった。握っている生殺与奪の権利をちらつかせもせずに、唯話しかけてきた。拒めない事を知っていて拒む選択肢を与える駆け引きの上手さ卑怯さを楽しめる人間ではなくなったと知った。もう男は楽しめる人間ではないのだと理解した。自分に放り投げられた言葉は、端から応えなど要してはいない。端から無理だと解っている上での言葉は、その裏に途方も無い諦めや無気力や無関心、全ての物事に無と非と否を掛けたような、負を掛け合わされた感情をどんよりと沈ませていた。底なし沼、底なし? 違う、彼には底がある。底があるのに底が見えないのが恐ろしかった。澱みきった感情がヘドロのようで、埋め立てられるしかない不燃物の言葉や行為が、その沼に呑まれていた。周囲に生い茂る錆び付いた有刺鉄線のような空気が、他人を近付けさせなかった。その沼を身の内に擁した男は、再び俺を否定しろ、語尾を重苦しく引き摺っていた。
眼を見ろ、と言う。夢見がちな事を言う、そう笑う事は出来なかった。眼を見て話せ、後ろめたい事がある人間は眼を逸らす、全くその通りで、単純だ。人間なら単純だ。それを逆手に取る事を出来る人間はいるだろう。自然の反射ですら、恣意的に行える人間は確かにいる。たとえば眼の前の男のように。しかし、眼を逸らすのは人間である以前の問題だ。動物なら、眼を見ない方が普通なのだ。出来る限り眼を合わせないのが動物の本能だ。――眼を見るのは、即ち、威嚇、敵を攻撃する時だけ、で。
眼を、見ろ、と。堪らず逸らしてしまう視線は、後ろめたい事があるのではなく、嘘を吐いているからではなく。眼を見てしまえば、自分は確実に彼を敵として見てしまっているのだと自身に知らしめる事になるから。人間ならば、限らない事でも、今の自分は、人間ではなかった。解っていた。全身が総毛立ち、吐き出す息すら獣の血腥い臭いがしそうだった。握った拳の中には咽喉を切り裂けるだけの鋭さを持った爪がある。咽喉仏を食い千切るだけの硬さを持った歯、歯列をゆっくりと舌でなぞる。獲物を前に唾液が過剰分泌されているような、追い詰められて渇ききっているかのような、その判断がつかない。良くも悪くも緊張と興奮が均衡している。彼は敵だった。自分は彼の牙を折ろうとしているけれど、彼は自分のこの息の根を止めようとしている敵だった。刃物も銃も持たないくせに簡単に自分にその柔らかな、硬い骨に守られていない腹部を曝して見せ、それでも彼は赤子の首を捻るよりも容易に自分を殺せるだろう事も確かだった。彼は唯そこにいるだけで、俺を否定するなら眼を見ろなんて陳腐な言葉だけで自分を殺せるだろう、いや、殺せる。
眼を見ない、のは、男の出方を窺っているから。どう出てくるか、何を言ってくるか。男の吐息一つ見逃さないほど、神経が剥き出しのまま昂っていた。
俺を見て、俺を否定しろ。変わる事のない調子で淡々と紡がれる音は、鋼のように身を縛り付け鋭く耳を貫いた。
――威嚇、するのは、守りたいものがあるから。何を守りたい? 十年前、守りたかったものは壊れた。崩れた。砂が風に洗われるように何も残さずに遺さずに、守りたかったものは、守れなかったものになった。守れなかったのは眼の前の、否、自分が眼を逸らしている男。一つに囚われる事のない奔放さが、抱えきれないほど溢れる笑みが、全てが大切だった、守りたかった、そして守れなかった。守るなんて言うのもおこがましいと言って嘲笑われるだろう、自分はその壊れた跡、一握りの心の破片だって掴めなかった。指の隙間から零れ落ちる水の方がまだましだった、手に掴む事すら出来なかった。最初から話にならなかった。なら今は何を守りたい。男が姿を消してから得た下らない見栄と自尊心と、積み上げてきた経歴か。そんなものか、今彼を敵と見做してまで守りたいものは、そんなものなのか。積み上げてきた築き上げてきたその脆い城、砂上楼閣。――彼が去ったその跡に、建てられた。彼が遺さなかったものばかり、名声や地位や金で造られた。その空っぽの城を、守りたいのか。
俺を見て、俺を否定しろ。その言葉は彼が自分に向かって言うべき言葉ではない。
俺を見て、俺を否定して下さい。この言葉を、自分が彼に言いたいのだ。
俺を見て、俺を否定して下さい。
下らないもので建てられた、玩具ですらない、産業廃棄物のような還元する事のないものばかりで造られて、その中には何もありはしない、空虚、隙間ばかりが目に付き空っ風は吹き向ける、そういう城を必死に守ろうとしている自分を城もろとも粉々に完膚なきまでに叩き潰して否定して塵一つ残さずに消して欲しかった。
逸らされた視線が、このままぶつからなければ自分は今この場は助かっても、永遠に救われはしないだろう。
入庁後。