爪で引っ掻いて書いた遺書
塗り重ねられるものが言葉だとするならば、刻まれるものは文字だ。
牢獄だ。
その部屋に足を踏み入れた瞬間、浮かんだのは牢獄。その言葉。ここは牢獄だ。夏の始まり、熱帯夜になるだろうと天気予報士が照りつける太陽の下、汗をかきながら言っていたが、陽が差し込まないこの北向きの部屋はひんやりとした空気を湛えていた。見上げる天井は遥か高く、もしかしたら十メートルほどあるのかもしれない。
四方は凹凸なく塗り込められたコンクリート・灰色の壁は圧迫感を生み、陰鬱な部屋の雰囲気を一層盛り上げるのに一役買っていた。いるだけで病気が悪化しそうな部屋。攀じ登る事も這い上がる事も出来ない聳える壁。閉じ込められたが最後、気が狂いそうなほどの静寂だけがこの空間を支配するだろう。
空気はひんやりと冷え込み、しかしこういう部屋に特有の黴臭いような、埃の臭いは一切なかった。空調設備がしっかりしているのだろうと見当をつけた。耳障りな音も無く、壁に埋め込み式のものなのかもしれない。四方に視線を巡らせ、この部屋には出入り口が唯一つ――外に出る手段は唯一つだと知った。
陽が差し込まないのは、元々明り取り用に天井間際、首を直角に、上方に開けられた天窓がコンクリートで封じてしまったからだと、そこだけ少し色の違う壁の一部を見ながら考えた。
地下二階のこの部屋、唯足下を這う空気だけが宿木を見つけたように自分に絡みつき、直接服の下、肌に四肢に冷えた枝を這わせてくる。まるで生きているようだ。人工的に冷やされた空気ではなく、それは土だとか影だとかに冷やされた自然の冷気、湿っぽさと静けさが絶妙に溶けて混ざり合った、人肌に優しい程度の冷たさだったが、同時に人の臭いを全く感じさせない人工的な空気の循環になれた人間からしてみれば、不安を掻き立てられるような、爬虫類の冷たさだろう。
「……ここで毎日寝てるんですか、」
私室に案内してやろうと自分をここに連れてきた男は、振り返り、良い部屋だろう? 肉食獣の余裕の笑みを見せた。「ここが一番落ち着くんでね」
牢獄が一番落ち着くなんて、アンタは根っからの極道ですね。部屋の中に置かれている家具を見ながら、少し嘲るような口調を意識すれば、良く解ったな、元々牢獄だったって。そりゃ解るでしょうよ、ここが地下牢だったなんて。壁に寄せられた黒い木製の机とベッド、それだけの部屋は、唯でさえ広いのに更に広く感じられた。
「本宅の地下にあるものなんて大概人に見せたくないもんか見られたくないもんでしょう」
地下牢に閉じ込められた人間を見世物にするような人間はいない。見世物にするのなら地下牢に幽閉する意味など無い。――この空間に閉じ込められていたのは、一体どんな人間なのだろう。
こっちに来いと男がベッドの方に足を向けたので、俺は今日はやるつもりはないと突き放した。今日は何も貰っていない、ならばくれてやる必要は無い。
「お前は随分と若いな」 躰以外にも売れるものを持ってんのに、それしか頭に無いわけじゃねぇだろう。野卑た笑いは、それでも男の口元に浮かべば猛々しい獣の笑いになった。「面白ぇもんがあるから見せてやろうかと思っただけだ」
訝りながらも近付くと、男はベッドを数十センチばかり壁から離し、ここを見ろと示した。言われるままにベッドに片膝を乗せ、視線を近づけて指し示した先を見る。――何です、これ、零れた言葉に男は見ての通り、文字だと言って笹塚の隣に身を寄せ肩を抱いた。「――人の名前、だよ」
壁にあったのは文字、刻まれた文字と、もう既に染みとなり壁の一部になったどす黒い色。掌で擦りつけたような跡、垂れた跡。僅かに点した赤みが、この染みの正体を教えた。……血ですか、問うた声にそうだと間をおかずに返された。「ここにはな、昔――が幽閉されてたんだよ」
男が楽しそうに告げた名前は、裏の世界で一時は日本の頭に立つとまで噂された男のものだった。それが抗争相手に行った画策で、よりにもよって海外の諜報機関の人間を巻き込んでしまった以降は姿を眩まし、挙句生存不明で死亡認定がなされたのではなかったか。
「うちの組も相当深い付き合いをさせて貰ってたらしい」 言葉の裏に皮肉と、微かに敬愛の念を滲ませながら「それで、最終的にうちが身柄を預かるわけになったんだけどな、」 良くも悪くも、色々な所に枝を伸ばし根を張り過ぎていたのだと言った。そして、昔気質だったのだと。
「事件……うちに匿われた後に、一人腹心が責任とって死んでる。――正確に言えば、秘密裏に向こうさんに引き渡されて死因は病死」 殺されたのか自殺か――海外の諜報機関がその腹心に何をしたのかは解らない。それでも腹心の死は、老いた男にとって無念以外の何ものでもなかったのだろう。何度も自殺を図ったのだと、――笑って、言った。
「……そんなにおかしい事ですか、」 自分には全く笑うところなど見受けられない。唯哀れな老いた男が、この絶対孤立の空間の中咽び泣く姿を、刻まれた文字に見た。やけに情緒に流されている自分がいる事に気付いていたが、堅いコンクリートの壁に一線一線刻まれた四つの漢字、多分、男の――責任を取って死んだ男の名前だと、思った。
「その死んだ奴ってのが、組長が散々可愛がっていた男だったんだとよ」 意味、解るだろう。隠す事なく下卑た笑いを尻目に、刻まれた文字を指でなぞった。渇いた血は付く事は無いが、穿たれた溝は指先に確かに感じられた。鋭角、鋭い刃で抉り取られたその直線の構成物。
「――誰が、こんな悪趣味な事をしたんです」
これ、その組長が彫ったものじゃないでしょう。断言された揺ぎ無いその言葉は、二人しかいない空間によく響いた。さほど大きな声でもなかったのにも関わらず、高く広く徹った。
「……今度こそ驚いたな、」 どうして解った? 本当に驚いたようで、そういう時の男の声は幾分潜められて密談をするかのような口調になった。まるで獲物を狙う寸前の気配。
「……自殺未遂ばかりしていた男に、金属製の食器を出すわけない、なのにこの壁の文字は随分深く刻み込まれてる、」 それこそ刃物なんかで刻みつけたみたいに――でも。静かに訥々と言葉を継いでいく。冷えた空気の波間を漂う声音は、この空間に良く馴染んだ。「この血は、きっと本人のなんでしょう、」 最後の言葉は少し言葉尻が上がったが、それも男に話す余地を与える為の、云わば譲歩の結果としてだった。
「――彫ったのは、姐さん――組長の長年連れ添った妻、だ、」 その譲歩に応じ、抱いていた肩を放して前屈みだった身をゆっくりと起こした。ズボンからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出して一本抜き、「そんで、血はその姐さんと組長のもんだよ」 緩慢な動作で火を点した。火が点いた瞬間、冷えた空気の秩序が僅かに乱れたような気がした。
――元々そこには、組長がてめえの爪で引っ掻き引っ掻き書いてた男の名前があったんだよ。
その跡は、刻まれたと言うよりも摩擦の跡のようになっていたと言う。何度も何度も同じ箇所を摩り減らすようになぞったその指は、つるつるになっていた、とも。――最初は唯壁になぞってるだけで済んでたけどな、段々引っ掻くようになってきた。そんな爪だって硬いわけじゃあるまいのに、気が触れたみたいに毎朝毎晩外聞なんてもん一切気にせず、一日中がりがりと引っ掻いては流れた血で名前を書いてたそうだ。飯がくりゃ……さっきお前が言ったみたいに、金属製でもアルミ製でもない、木製だったんだけどな、箸やスプーン、兎に角何でも使っては壁に向かって彫り続けていたってな。もうその頃には、相当頭にきてたみたいだが。
男は、ふうっと長い溜息と共に煙を吐き出した。温い煙は通常より早くこの空間に溶けた。「――極道にこの人ありと言われた男がそんなみっともねぇ姿を曝していたなんて知った日にゃ、一気に萎えるってもんよ」 その口調には嘲りや皮肉といったものよりも、本当にやりきれなかったような心情が見え隠れして、存外この男は自分が思っているより極道と言うものを全うしようと思っているのかもしれなかった。
「――それで、ついにぶっ倒れて死にそうだって時に、姐さん娘っ子連れてお忍びで看取りに来たんだがな、当の奴さん――」
男の名前しか、最期まで妻や娘の名前も呼ばないで男の名前だけしか呼ばないで、死んだっていうから、残された姐さん面目ねぇ話になっちまった。笑える話だがよ、そん時は誰も笑えなかったって聞いたよ。男は口元だけで笑った。そうだよな、よりによって他の組の屋敷の一室で――臨終の時は流石にここから出してやったみたいだが――、妻である自分の名前も呼ばないままヤローの名前呼び続けて死んだなんて、恥曝しもいいところだ。
「でも、まぁそこで取り乱さずに最期まで姐さんでいる事が出来たってだけ、なかなか出来た人だったみてぇだが、――夫が過ごしていた部屋を見たいなんて言っちまったのが間違いだった」
彼女は、見てしまった。見つけてしまった。動かされたベッド、隠されていた壁の跡に。夫がその指、指紋が磨り減りつるつるになるまでなぞり続けた名前、血で書かれた名前、爪が割れても尚引っ掻く事を止めなかったその名前。――女を壊すには、十分だった。
時間もなく急な事だったとはいえ、もう少しまともな隠蔽工作してりゃ良かったのによ。「姐さんも、気が触れたみてぇに夫の愛用してた匕首でてめぇの掌切ると、血で書かれた文字を洗うみてぇにその血を擦り付けて、匕首壁に振り下ろして――その男の名前を刻み込んだって話だ」
夫が死の間際まで呼び続けた名前を、自らの血で記した名前を、上から同じように血で塗り重ね塗り潰し、自らの躰を傷つけ壊しながら書いた名前を、それ以上に強い力をもった刃で刻み直す着物姿の美しい女の姿が脳裡に浮かんだ。気丈な女を狂わせたこの空間、壁に残された名前。――敢えて死んだ男の名前を刻んだのは、どうしてか。
「直後にコンクリ塗り直そうって意見もあったらしいが、現に今もここにこうやって残ってる」
男はお前も吸うか? 煙草を差し出してきたので遠慮なく貰い、序でに火も貰った。「――女の執念ですか、」
最初の一口、深く深く吸い込んで躰に巡らせた後、視線を壁の文字から外して短く問えば、「女の自尊心だろう」 男は反対に、文字の方に眼を向けながら呟いた。未だ初老に達していない横顔に深い翳を落とし、紫煙を吐き出して男は言った。「自尊心を傷つけられた女の、夫とその男に対する、復讐だろ」
男が何日も何十日もかけて刻み込んだ愛しい男の名は、妻の一時の激情によって跡形もなく消された。いや、妻が上塗りしてしまった。最早、夫が最期までその男を愛した証として残されているものなど何も無い。この先、人の記憶にしか残されない、しかしそれもその内忘れられ消え去ってしまうだろう。妻は、男の名前を自ら上に刻む事によって、夫のものである男を夫から奪ったのだろうか。――想像に過ぎないが、そうだとすればそれは、酷く攀じれた愛情の発露だと思い、その激情を有した女を羨ましく思った。――自分は、そこまでの感情をもう誰にも何にも抱かないだろう、抱けないだろう。
思いがけず思考の沼に嵌まりかけた瞬間、この部屋は、男の独白によって破られ、引き戻された。
この部屋は、人間が狂っているだけの感情が滲み付いているから心地が良いのかもしれねぇなと、男は燻らせた紫煙の向こう、翳の中に光る獣の眼をして哂った。――この男もまた、幾ら獣のようでも確かな激情を有した人間なのだ。
裏社会。