乱暴にして凛々しい流浪の彼に叫びを
乱反射する陽光は眩しく、きらきら青天から零れ落ちる白い光の破片が眼とは言わずに皮膚に刺さり髪に刺さり、同時にどろりと溶解して滑っては皮膚呼吸ができなくなりそうなくらいにねっとりと絡み付いてくる。じりじりと照りつけては焦がすような陽光の方が余程ましだ。帽子でも持ってくるべきだったか、笹塚は手で庇を作りながら顔を上げた。
真昼丁度の学生街、普段溢れる人の姿も今日は影を潜めていた。蒸し暑い真夏日になる、当たらない天気予報のまぐれ当たりか、一筋汗が顎を伝った。遠くに視線をやるも、待ち人の姿は未だ見えない。背の高さだけが取り柄なんです、控え目に笑う後輩を思い出した。そんな事ないだろう、自分の言葉に困ったような笑いをしてみせたか、徹底した謙虚さが尊大な卑屈にならない絶妙のバランス感覚を羨ましく思ったのを覚えている。
何となく手持ち無沙汰で、待ち合わせまでまだ時間は一時間以上ある、それを腕時計を見て確認した。幾ら体育会系の精神を叩き込まれた礼儀正しいあの後輩でも、そんな前に来るほど暇ではないのだろう。自分だってこの待ち合わせる前の用事が早く終わったから、そのまま直行したに過ぎない。普段なら待ち合わせ時間プラスマイナス五、というところだろうか。
そういう自分とは対極にいる男は、確か剣道をかじっていた、そう言っていた事も思い出し、すんなり口に出たさぞかし恰好良かったろうな、その言葉への反応も同時に思い出して、少しだけ口元に笑みを浮かべてしまった。
――一拍置いて、直後脱兎の如く駆け去ってしまったのだ。
「……恥ずかしかったり嬉しかったりで、」
後々顔を赤くし、照れを誤魔化すように後頭部を掻きながら胸の裡を明かした後輩が、自分と同じ男で、自分より背が高いという事実を差し引いても、やたらと可愛く思えた。
(……筑紫来るまで、喫茶にでも入って待ってっかな)
そうでもしないと、熱中症になってしまうだろう。隠れ家的な、珍しく後輩の方が見つけてきた陽の光が差し込まないそこに向かいながら、一杯くらい冷たい飲み物でも奢ってやろうかと考えた。
凜烈、冬の情景に融け込みそうなその姿、血の気を失った唇から紡がれる音は全て、空気を震わせるのではなく切り裂くかのような激しさを伴っていた。細く長く、届く前に途切れてしまえばいいのにそうはならない鋼の強さ、笹塚の声は不思議なくらいに鮮明なまま筑紫の耳に皮膚に、それ以上に心に突き刺さった。
――酷い事を、言うよ、
前振りが前振りになっていない、冷酷ではないけれど、冷えた声と酷い台詞は併せて冷酷と言えるのかもしれないと思った。そんな風に気を紛らわせないとどうにかなりそうだった。笹塚の、普段綺麗に笑みを乗せてみせる唇が、酷薄そうにすうっと横に引かれた。
(……あ、)
薄く開かれると共に、引きつった空気がぴり、と疼いた。――空気だけだっただろうか、疼いたのは。
「筑紫」
あぁ、言うな、言ってくれるな。他の箇所より薄くなっているそこは、一度抉られて汚らしく引きつっている。薄皮一枚、生々しい肉の赤が透けて見える、そこが再び破けて傷口が開いてしまう。――それは熟れた柘榴が自然にぱっくり割れ、その毒々しい赤を曝すような、至極当然の成り行きでもあるように思えるのも事実だったけれど。
(言うな、)
恐らく。恐らく今傷口が裂けて血が流れ出してしまったら。
死ぬまで凝固しないまま、傷口は膿みもせず腐りもせず、凝固しないまま。
「筑紫、」
血が、流れ続けて、
血は、流れ続けるしかなくて、
この空気にも凍る事の無いような確かな熱を保ったまま、疼く傷口から血を流し続けるしかなくて、
だから、
ルワンダ内戦の悲劇。フツとツチ。長い年月を経て、今は外見で区別なぞ付きはせず、言語的な差違もほとんどない。
良き隣人として、或いは家族として暮らしていた彼らを、殺す者殺される者、狩る者狩られる者へと関係を変えてしまったもの。彼らを分かったものは何だったのか。
身分証明書、出自欄に書かれた民族がフツかツチか、それだけだった。
薄っぺらい紙切れ一枚に連なる文字、記号、もっと還元していけば唯の線に過ぎないそれが、全てを綺麗に分けた。
初めに言葉があった。言葉は神で、神は言葉だった。日本も変わらない、最初に言葉を発したイザナミは、それを咎められて最初から一連の所作をやり直さなければならなかった。
言葉は話し言葉、言語だった。集団の中でのみ生きるそれは一回限りのもの、記憶されるものだった。集団の中だったからこそ記録ではなく記憶され、一回限りのものである事を許された。だからこそ、言葉は神であり得た。
しかして、ルワンダの悲劇、殺す者殺される者を分け、その命運を分けたものは、言葉、話し言葉ではなく文字だった。対峙するものに一人で在る事を自然強要するそれは、何回でも繰り返されるもの、記録されるものだった。紙、粘土板、石、そういった媒体に記録されるからこそ人、集団に記憶されずに、繰り返される事も可能となった。だからこそ、文字は神ではあり得なかった。
記録は完結されなければならない、たとえ完結していなくとも文字により記録された時点でそれは既に、半ば強制的に完結されてしまっている。
記憶は完結されなくても良い、たとえ完結していてもそれは言語により記憶されている限り誰何され吟味され淘汰され、そうやって変容していくものであり、完全に定着した完結は決して望めない。
言葉は生者の間で初めて意味を為し存在が可能になり、その存在は記憶と変容を前提としているからこそ、問答を可能とした。言葉は生者のものであった。言葉は刹那を生きていたし、今現時点でも生きている。
文字は、その生者を必要としない。
完全なる完結の徒としての文字は、生者に対して応えを返さない。彼らは既に完結してしまっているのだ。だからこそ文字は文字なのだ。文字は生者の為に言葉が在るように、死者の為のものであり、寧ろ死者そのもの。文字は永遠に死んでいたし、これからも死んでいる。
前日まで共に笑い泣き励ましあって語り合っただろう良き隣人は、唯紙に書かれた「ツチ」ということば、文字、記号の一種、それを見て彼を彼女を殺した。
言葉は何の役にも立たなかった。文字が言葉を凌駕した。
言葉は何の役にも立たなかった。
役に立たなかった。
連続の失点に思わず舌打ちした。
「くそ、」
珍しい筑紫の乱暴な言葉に、笛吹と笹塚は缶ビール片手に、互いに顔を見合わせた。
「聞いたか」「聞こえるだろう、普通」
蒸し暑い夏の夜、三人がいるのは笹塚のアパート、アンテナの都合上少々映りが悪いテレビから聞こえてくるのは野球中継。
「何であんな凡ミスするんだっての……!!」
悔しそうに拳を握り、愚痴を一つ零した筑紫の横顔を、二人は天然記念物でも見るかのようにまじまじと見つめた。無口だが温厚な男のいつもの穏やかな顔はそこにはなく、ただただ、贔屓にしていると言っていたチームが点を入れられた事に腹を立て怒っている姿が新鮮だった。右手の缶ビールが握り潰されていないだけまだ良いか。ビールは零すと後が面倒だ。
竹の花が咲くよりも珍しいな、笛吹がつまみを摘みながら小さく呟き、オレの家の前の竹林に、花咲いているのあったぜ、笹塚がそのつまみを奪い取りながら矢張り小さく返した。すぐに小言を言おうとした笛吹の唇に立てた人差し指を当て留めた。
「……静かに、笛吹、」
かしましい実況中継の声を排除し、すぅっと耳を澄ませば積極的に聞きたくは無い歯軋りの音まで聞こえそうで、しかしそれが筑紫の歯軋りだと思えば珍しさが勝って聞いてみたいと思った。
「――笹塚さん?」「笹塚!!?」
「あぁ、そのままで、筑紫」
ひたり、筑紫の隣に座ったまま近付き、自分の耳を筑紫の口元に近付けた笹塚は、反射的に離れようとした後輩の肩を抱き抱えるようにして抑えた。低い温度が筑紫の剥き出しの首に触れて、冷水を浴びせかけられたように一瞬で身が引き締まった。
「――筑紫も歯軋りなんかするんだなぁと思っただけなんだけどさ、」
気付いているのか否か、変わらない調子で笹塚はそのまま後ろから覆い被さってしまう。首だけでなく背中に肩に頬に感じられる、ひんやりとした冷たさが心地良いようで、同時に少しばかり汗ばんだ肌に押し付けられるシャツが不快だったりで、筑紫は背中に引っ付いた笹塚をどうすればいいのか迷った。
「笹塚さん、」
少し首を回らせ話しかければ、その拍子に耳を柔らかく笹塚の髪が撫でて、猫の毛のようなそれがひどくくすぐったかったが、それに意識を向ける事はなかった。
すぐ、横に。笹塚の横顔があった。当然だ、覆い被さられているのだから、横にあるのは、当然だ。だが、この至近距離、肌理の細かさまで解ってしまいそうで、寧ろ邪魔だろうと思ってしまう睫毛の長さにも改めて驚いて、触れてもいないのに頬の冷たさや潤いも感じられるようで、呼気に僅かに含まれる湿り気が丁度、そう、唇辺りに感じられて、触れた後のように濡れた錯覚を覚えて、しかしそれよりも何よりも。
笹塚が、笛吹がいる前で自分にここまで密着する事が。
「笹塚――……」
筑紫の言葉が最後まで言い終わらない内に、ずるり、笹塚の躰が背中で滑った。炭酸が抜けるように力が一気に抜けた躰は、その全体重を筑紫の背中に預けた。
「――さ、笹塚さん?」「――この馬鹿が……!!」
笛吹はこれ以上ないくらいに、顔の中心部に皺が寄りすぎなほどに顔を顰めてみせた。
「コイツは一気に来るんだよ。それまで見た目素面だからタチが悪くて敵わない」
手に持った缶を床に置き、笛吹は筑紫の背中に張り付いたままの笹塚の脇の下に両手を差し込んだ。この夏場でも、相変わらず低血圧だなコイツは。毒とも呆れとも取れるような呟きを吐き、引き剥がす。
「筑紫、足の方持て。このままベッドに投げ込む」
「投げ込むのは流石に……」
「言葉のアヤだ。兎に角運ばなければ邪魔で仕方ない」
自分よりもはるかに上背のある笹塚の上半身をだらりと持ち上げたまま、その状態は双方にとって辛そうだったので筑紫は急いで立ち上がると笹塚の両の膝の裏を持ち上げた。そのまま同じ部屋、窓際に置かれたベッドに運び込む。
「全く、自分の限度を知れと言うんだ」
言いながらも、薄地のシーツを笹塚にかけてやる笛吹に、何だかんだで面倒見いいですよね、零れた言葉に筑紫は自分で驚いた。無意識、本当に零れてしまった、それ。
「コイツは馬鹿だが、コイツ以外で付き合える奴もそうそういないからな」
その声、に、微かに優しさや慈しみといった類の、笛吹が対外的に嫌っていると見せようとしているものが確かに含まれているのを敏感に感じ取った。剥き出しの神経に触れたかのように、その笛吹の淡い感情は針のような鋭さで筑紫の心を刺激した。
(実際、)
奥歯を噛み締める音が自分の中に響いた。
(歯軋りなんてしてる)
笹塚が気付いていないだけで、笹塚に気付かれないようにしているだけで、ままならない事に自分自身の非力さに不甲斐無さに、いつだって足掻いている。
(今だって)
笛吹の邪な感情など一切含まれていないだろう言葉で腹の底が戦慄いている。握った拳が震えそうになるのを抑えている。
(莫迦みたいに)
理由なんて、とうの昔に知っている。
テレビから聞こえる野球中継のアナウンサーが、また点が入ったと叫びながら伝えていた。
論理的な人だと思っていた。
その思考は、まるで絹の如き柔らかな思考の軸を緻密に慎重に組み立て、蜘蛛の糸の如き細く強い言葉で補強して作られたような、一分の隙も無いものだった。崩そうと思ってもけして崩せない、強固でいて相手の言を包み込んでしまう、綻び等一切無い完璧なまでのそれ。天衣無縫、自然で飾り気のない人柄や詩歌に冠される言葉を当てはめたくなる。膨大な知識に裏付けされた論理、技巧を尽されているのにそれを全く解らせない自然な巧みさ、天衣無縫な論理。おかしいような言葉でも、そう言いたくなった。
しかしある日唐突に、気がついた。彼は全く論理的な人ではないのだと。寧ろ非論理的ですらあるのだと。
「後出しじゃんけんみたいなもんでさ、」
校舎の脇に設置された日陰のベンチ、笹塚の定位置。煙草の煙を吐き出しながら、その天衣無縫な論理を展開してみせる男は笑って言った。
「何か、もう最初に答えっていうか、導き出したいものが浮かぶんだよ」
既に浮かんでいる、って言った方がいいのかな。吐き出した煙が環にならずに、上手くいかないや、眼は解けた灰色の煙の残滓を残念そうに追っていた。その様はまるでシャボン玉を追う爛漫な子供のようで、きっとこの人はシャボン玉が好きだったのだろうと思った。シャボン玉と煙草では随分と差があるが、恐らく笹塚の中では同じなのではないだろうか。細い管、ふわり浮くもの、消えるもの、その三つのイメージ。進んだ思考の先に連想された儚いそれは、自分が今彼との間に大きく横たわる溝に愕然としているからだろうと無理矢理決めつけた。
「んで、後説明する時に、自分でも『あぁ、こういう道筋辿ってああいう結論になったんだな』って確認するわけ」
だから、組み立てるとかそういうの考えないで、逆に既に完成されたものを解体していくような感じでもあるんだよな。
再度、ふぅっと紫煙を吐き出して笹塚は「あんまり参考にならないだろ?」 右の眉だけ下げて笑った。煙草の薄い煙を絹のように滑らかに燻らせて、笹塚は筑紫を眼だけで見た。
真逆だ、と筑紫は思った。全く、自分とは違う。一つ一つ部品を組み立ててて完成させていく、そういう自分と、完成品を解体して部品一つ一つに還元していく笹塚。既に工程そのものが違う。求めているものが違う。
「笹塚さんは、プラモデル組み立てるより、完成品を分解していく事の方が好きだったタイプでしょう」
試しに聞いてみれば、どっちとも好きだったよ、さらりと返した後に「でも、確かに分解の方が面白いっちゃ面白かったな」 横顔は昔の記憶を浚うように霧散した紫煙を追って、独り言ちた。突然出されたプラモデルという単語に特段引っ掛かる様子も見せずに、それは確かに自分の思考を先読みしていたからだと知れた。
「……俺とは、正反対です」
「今更言ってんなよ」
間髪いれずに返された軽口が、決定的な一言に思えた。
学生時代。事件前と事件後。
「ん」の音を二番目に。るだけはルワンダで……
言葉は生きるもので〜云々は、私が思うものですので、一般ではない事を付記しておきます。