魔人探偵脳噛ネウロ

揶揄する気も起きないような許しの声を

らかいと言うよりかは柔い人間。笹塚の事をそう称したのは一つ年下の男だった。
「同じ意味だろ」
「意味は同じですけど、」
ニュアンスが違うじゃないですか。
びっしりと文字で埋め尽くされたノートは笛吹のもの。笛吹の性格を表すかのように細かく細い、角ばった文字は、見ただけで目眩がしたが、笹塚は別の教授の講義を受けていた為に、昨年の笛吹のものを借りていた。
「Kの音が入ると柔らかさが少し殺げてしまうでしょう」
手元のノートから参考になりそうな所を拾っては自らのノートに書き込んでいきながら、筑紫は顔を上げずに続けた。「笹塚さんには、Kの音が余り似合わない……と思ってるだけです、俺が勝手に」
毎度おかしな事を言うなお前は。苦い笑いを含んだ声が耳に届いた。小さなテーブルを挟んだ向かい、胡坐を掻いて刑事法の授業で使うらしい分厚い文献をめくる手を止めたのが知れた。「俺、苗字にKの音、入ってるんだけど?」 それは承知の上ですよ、筑紫はざっとノートを確認した。何から何まで書き写す事はしない――本当に必要な所以外は笛吹のノートから書き写さずに、そうして今一度見直した後に漸く顔を上げた。
「でもそれ以外にKの音は無いでしょう。唯一のKです」
語尾に強い調子を感じ、笹塚は片眉を上げた。滅多にこういうものの言い方をするような人間ではない。「意地になってる?」 笹塚の表に出難い、微かな戸惑いを敏感に感じ取ったのか、筑紫は前言を取り繕うかのように言った。
「なってませんよ、」
ぱたん、手元のノートを閉じた筑紫の言葉に、そうか、とは笹塚は言わなかった。筑紫が何かを隠そうとした事は明らかだったが、そこを追求する権利は自分にはないと思った。相手が隠そうとしているものを暴き立てる趣味は無い。――が、「――なぁ、筑紫、」
お前にはKの音が二つも入ってるけれど、それはいいのか?
笹塚にしてみれば、自分が気になった事を何気なく尋ねたみただけだったが、問われた筑紫は不意を衝かれたような顔をした。内面の逡巡が視線を揺らし、何かを言おうとした口は、開きかけるも結局一言も発さずに閉じられ、余り心地良くない沈黙が生まれた。――失敗した、笹塚は心の中で舌打ちした。失敗した。筑紫との間のこの類の沈黙の蔓延は、兎に角慣れない。筑紫のこの沈黙は、彼自身が未だに決着、乃至は答えを見つける事が出来なかったからこそだ。他の人間だったらこの沈黙も取り立てて笹塚にとって留意するべき事ではないが、この男は別だった。
自分らしくもない気まずさ、それを少しでも拭おうと、煙草でも、思いズボンのポケットを探ろうとした時、ぽつりと筑紫の僅かに開いた唇から言葉が零れた。
「……笹塚さん、俺は、多分そういう人間だからいいんです。でも、」
笹塚さんは、違うんです。
意味が通じる事を前提としていないのだろう筑紫の言葉に、笹塚もまた言葉を返す事はなかった。
筑紫の言葉の意味は解らなかったが、その意味を自分が知る事はないのだろうという事だけは不思議なくらいにはっきりと解っていた。


せない事を赦すからこそ赦しと云えるのである。アウシュビッツを生き延びた女哲学者の言葉を思い出す。
赦せない事を赦す。赦せてしまったらそれは赦しではなく、そもそも赦せない事ではなかったのだと云う。罪を免除してやったに過ぎないのだと。
自分は、思う。自分は赦せない事、その事実そのものを抱く事を赦そう。赦そう。いや、自分が赦さなければならない。
この手が血に塗れても、全て一切合財を自らに帰する為に、赦さなければならないのだ。


い醒めの水は甘露の味っていうけど、どうだ? くすぐるような優しく心地よい声が聞こえ、あぁ、自分は潰れたのだと思った後、そうか、自分は飲み潰れたんだ、改めて思った。大丈夫です、そう言おうとしたが情けない事に呂律が回らずに、呻き声のようにしかならなかった。野暮用がありスーツのままゼミの歓迎会に出たものだから、ネクタイが首を締め付け少しばかり苦しかった。頭を揺らして首元のネクタイを緩めようとしてみるが、徒労に終わった。それどころか、頭を振った所為で余計アルコールが脳内に回ったのか、一層気持ち悪くなった。
水、飲めそうか? 再びの声は先ほどよりも近くに聞こえた。輪郭はあやふやだが、確かに笹塚が側にいる事だけは解った。気配、空気の温度、息遣い、アルコールで五感は死んでいるはずなのに、別の所がやたらと活性化しているようだった。眼を開ければ済む話だが、開けようとする気力よりも重いままに閉じている方が笹塚がより近付いてくるのではないかという思いも同様に強く、結局そのままでいた。事実、その読みは当たっていた。
筑紫、ひんやりとした細いものが咽喉仏に当てられ、そのまま下った。指だ、笹塚さんの指だ。白魚のような――そんな表現があった気もする、いや、あった、兎にも角にもそういう指。けれども白魚のような弱々しさはない気もして、代わりに細く小さな白い蛇を見た。蛇、小さな毒を持つ牙を隠した蛇。笹塚の五本の指は筑紫の咽喉を時々食むようにしながら滑り、咽喉元の薄い皮膚を裂くように下ったかと思えば、労わるかのように舐るような動きをしてみせた。滑らかな白い蛇の冷たさは皮膚の表面に漣を立たせた。辿った跡、締まった皮膚に、もしかしたら笹塚は解ってしまったかもしれないと危ぶんだが、ネクタイの結び目に指をかけられた時、苦しいんだろ筑紫? 噛んで含めるような、柔らかく、まるで子供を扱う大人のような調子の声で自分の先走りを知った。顔が赤くなったとしても今は酔いの赤みと区別なぞつかないだろうと、それでも矢張り頬に今まで以上の熱を感じた。
今緩めてやるから、そしたら少しは楽になるだろ。首元、笹塚の柔らかな指の動きを感じながら、蛇が首を擡げた姿を表す英語と勃起した性器を表す英語は、俗語では同じだった事を思い出した。思い出して、やはり頭が働かないと再確認した。


学生時代事件後学生時代な時間の変遷で。

(20060217)