間に合わなかった無辜の民に黙祷を
真新しい鬱血の痕はつい先日、或いは昨夜辺りに付けられたものか。肩口に散る紅花に似たそれは、時間が経つにつれて消えていくくせに、自分が付けたのではない限り己の中に消えない狂い咲きの花になった。散る事を知らない風情の欠片もない花。てらてらとぬめる毒々しい艶を持った花。いっそ元から抉り取ってやりたいくらいの気持ちにすらなる。元から、肩口を肉を丸ごと抉り取りたいくらいに。
筑紫、筑紫、筑紫、
今この瞬間呼ばれるのは自分の名、繰り替えされても尚、空々しさは消えなかった。
見限らないで下さいよ、まだ。そう言って筑紫は余裕を言葉の端に滲ませた。普段滅多に相好を崩さない男、隠しきれずに零れた笑みを口の端に、笹塚に試すような視線を寄越した。その少し伏せられた黒い眼に浮かんだ喜色を、笹塚は見逃さなかった。(何かに似てる)、濡れた黒とくっきり分かれた白、じっとこちらの出方を伺う眼。
「……期待しても?」
「いいですよ……と言うか、して下さい、」
期待。 隠しきれないと悟ったのか、嬉しさを露わにして楽しそうに、悪戯を仕込んだ子供のように言った。声も弾ませ、さながら本当に躰の大きな子供のようだった。
(……大型犬、) 大型犬だ。子供というよりも、迷惑をかけない悪戯を好む大型犬。大人 のように分別を好むくせに、時折不意打ちでじゃれついてくる、眼の離せない犬。
珍しい筑紫の様に、犬みたいだなと実際口に出して笑って言えば、今ならお手、出来ますよ。
「試してみますか?」
「どんなプレイだか解らねぇな」
くくっと笑って筑紫の短く刈られた髪を撫でる。癖のない毛、絡まる事なく梳ける手触り が気持ち良く、一回限りのはずが何回か撫でた。
「……ま、頑張れよ?」 笹塚の言葉に、「……はい、」 ゆっくり、噛み締めるように筑紫は頷いた。
無駄な事はしない主義だと言う。「何にも意味がない事をしても損なだけだ」
一切纏わぬままに、ベッドの上で煙草を吸う男に、そこで自分はこう言ってやるのだ。「男同士のセックスなんて無駄無意味の極みじゃねぇか」
吐き出された精液も種も子孫を残すなんて大層な役目を背負わされただろうに、最終的に 排水口かティッシュで拭われてゴミ箱だ。それとも躰の栄養になるとでも言うのだろうか? それはそれで面白いが。
「……だから損なだけだって言ったろ」
自分の躰を自分で玩具のように扱う男ほど、厄介なものはない。
眼が痛い。ぐっと眉間に皺を寄せて笹塚は呟いた。 笹塚の部屋の中、筑紫は課題をこなす手を止めて向かいの男を見た。
「……何か入った」 眼を瞬かせ、目元に手をやろうとした、その手を筑紫は掴んだ。「擦らないで下さい」
余計に痒くなりますよ。テーブルに身を乗り出し、子供に接するような態度で眼にかかる薄い茶色の髪を掃い、筑紫は笹塚の眼をぐい、覗き込んだ。「子供じゃねぇんだから、」 少し睨みつけて言いながらも、合わせて笹塚も真正面、筑紫の眼を直視する。色素の薄い眼に、虹彩が散る様がはっきりと解る。髪とは違い、ウォームグレイ、薄い灰色。「……何も入ってなさそうなんですけどね、」 筑紫は顔を離し、乗り出した身を戻した。
そうか? 笹塚は再び眼を瞬いた後、ぐるんと眼を一回りさせて言った。「睫毛溜まりに行っちゃったか」 何気なく呟かれた笹塚の一言に、一つ年下の男は吃驚したような顔をした。
「――睫毛溜まりって、笹塚さん、それ本気で言ってますか?」
冗談で言ってるんでしょう、そう婉曲された言葉に、少し意地悪してやりたくなる。してやりたくなるが、通り一遍の意地悪では意味がない。視線を斜めに走らせ、瞬時に考えを巡らせる。
「――筑紫、先輩として、一つお前に課題を与えてやろう」
「何ですか、藪から棒に」 不審がる様子を隠そうともせずに問い返す。――こういう時の笹塚は、ろくな事を考えていない。
「人体に関する都市伝説考察、傍証も揃えて明後日までにやってきてみ?」
「――いきなり、それですか?」 俺は法学部であって、文学部でも社会学部でも医学部でもありませんよ? 至極当然の反論をする筑紫に対し、「浅いな筑紫、」 笹塚はにやりと笑った。
「物事一つ否定する為には、確実な反証を挙げない限り説得力がない。でもそれだけじゃつまらない。お前が睫毛溜まりを否定するなら、何故そう言われるようになったのか、流布したのか、何処が発祥か、そういった発端から調べて最終的に否定してみな?」 邪気はないが悪巧みをするのが好き、そういう子供らしさを残した笹塚の笑った顔を、種類は多々あれど何だかんだといって筑紫は好きだった。好きだったが、これとそれとは話が別だ。
「笹塚さん、俺、これ以外に法文化論のレポートも抱えてるんですけれど。週末締め切りの、」
手元に広がる洋書と笹塚が去年使っていたノートを人差し指でとんとん、叩いた。
「――都市伝説考察が俺の気に入るもんだったら、そのレポート手伝ってやってもいいぞ?」
あの教授は少し癖のある人だからなぁ、ちょっとしたレポート作成でもコツ踏まえないと、素材がよくても評価してくれないんだよなぁ。ちくちくと刺さる言葉の数々に、筑紫は一つ、大きく嘆息した。「……つまらなくてもいいですから、人体構造上の点から論じては駄目ですか」
「駄目」
つれない即答に、「それじゃあ、せめて条件に付け加えて下さい。――もし俺が、笹塚さんの満足のいく考察をまとめる事ができたら、」
その要求に、笹塚は眼を丸くし、そうして次の瞬間、筑紫は笹塚の爆笑の渦に一人巻き込まれていた。低血圧だと普段訴えているそのままの、決して血色のよくない顔、頬が僅かに上気して紅潮していた。
「お前、本当揶揄い甲斐があっていいなぁ!! 好きだよホント!!」
けらけら笑い転げる笹塚をよそに、「約束、しましたからね」 念を押すように一言、低く言い放った筑紫は、とりあえず眼の前の課題を終わらせる事を最優先事項にした。
喪服を常に身に纏っていた。
毎日人が死んだので、毎日黒い服を着ている内に、喪服が普段着のようになってしまった。
そんな事を一々気にしていたらやってらんねぇよ。自分の男はそう言うが、どうしても喪服の癖が抜けなかった。だからいつも黒い服を着ていた。
『――さんは、髪といい肌といい、色素が薄いから濃い服の色を着ると、一層薄く見えますね』
そんな事を昔、よくつるんでいた後輩が言っていたのを思い出す。『――何だか』
外敵から身を守ろうとする為みたいな、目立たないようにわざと汚れて周囲に紛れ込もうとしているアルビノみたいな感じもしますけど。
その時は散々な事を言うと笑ったが。
(――あぁ、)
多分、合っている。今の自分になら、その言葉が当てはまる。
黒い服を身に纏う。
それは自分が血に塗れていても、周囲に悟られないようにする為の智恵だ。
血に汚れ体液に塗れた自分を、周囲に見られないようにする為の智恵だ。
そして。
血に汚れ体液に塗れてまで隠したいものの存在。
血に汚れ体液に塗れる度に、一層弱く脆くなっていくのも自覚していた。
喪服は、実際は、自分の弱く脆く、それでいてもっとも人間らしいと言えるのだろう血の通った部分を完全に隠す為だけに着ているようなものだった。
学生時代入庁後ごちゃまぜで一つ。