魔人探偵脳噛ネウロ

憚る事なく偏屈にして不変の日々の記を

っきりと言いはしなかったものの、暗に提示された条件に眉を顰めた。シャツの胸ポケットを探るも、求めたものは既に空、忌々しげに舌打ち。自分の感情を悪化させている当の本人、目の前の男は黙したままくい、親指で壁を指した。その先、日に焼けたのか、或いはここが以前は喫煙可能だったのか、薄く斑に黄ばんだ壁に貼られた禁煙というレッテル、その赤い文字。矢鱈と存在を主張するそれを一瞥し再度毒吐いた。禁煙? 知った事かよ、そんなん。怒りに任せてがん、テーブルを蹴り上げるとコーヒーカップが跳ねた。白いテーブルの上にも飛び散った焦げた茶色がじわりと広がる。
「……社会的ルールを守ってくれないとこっちだって困るんだけど、」
それとも、もう俺からの情報はいらないって事か。
重いものを引き摺るような語尾、沈黙を多く含んだ、いっそ空虚さすら感じさせる独特の間合い、吐き出された脅しの言葉。明日の天気の話題にも似た、日常会話の一部のように簡単に放られたその内容の重さを実感したと同時に、さぁっと血の気が引いた。
男は今し方自分が言った言葉の重大性など考えもしていないように、安っぽい味の薄さのブラックコーヒーを口にした。。
今ここでこの男との繋がりを絶つような真似をすれば、明日には自分は身元不明になっている。その程度の命だ。唯の使い走りに過ぎない。代わりなら掃いて捨てるほどいる。でもこの男の代わりは、多分いない。そう上は考えている。それほどの男。
「……そうは、言ってねぇだろ」
「それならいいけど」
独特の間合い、沈黙。
自分が持っている情報の重さに目もくれない、やる気のない声の裏側にあるものが、実際はやる気のなさではなく唯眩いばかりの白い虚無だと知っている。


しひしと感じられる冬の寒さ。風もなく、肉を透過して芯に直接突き刺さる冷えた陽光。綺麗に塗られた青の空は、叩いたら亀裂が走って割れてしまうのではないかと思えてくるほどに乾いている。雲一つない。白いのは自分の吐く二酸化炭素ばかりの息だけ。
昨日起きた強盗傷害事件の聞き込みの最中、一計一軒家々を回る内に、笹塚の元々低温の体、特に末端組織はおよそ人とは思えないほどに冷え切っていた。
「先輩、壊死すれすれ直前の状態の冷たさじゃないっすか!!!」
次の家に回ろうとしていた時、さっと触れただけの笹塚の右手指先、感覚がまだあるのかと疑いたくなるくらいに凍えきったそれ。触れた次の瞬間にさっと引かれ、くたびれたコートのポケットに収められようとした寸前。ごつごつした、身長体重を考えれば存外に細い手首を掴んで自分の近くに引き寄せた。そのまま両の手で自分よりも大きい手を包み込んでしまう。
「先輩、ホッカイロとか持ってないんですか?」
はあぁ、と包み込んだ笹塚の手に自分の息を吹きかける。水蒸気の白さは瞬く間に霧散してしまうのに、石垣は気にしないまま何度かそれを繰り返しながら話しかけた。
「……持ってないよそんなもん」
皮膚に触れた吐息の生温かさ。じんわり染みていくように広がっては、吹きかけられた中心の部分に僅かな人肌にも似た温度を残したまま、潮が引くようにすぐに縁から消え失せていってしまう。後に残るのは中途半端な湿っぽさ。振り払おうと軽く手首を振ってみても、石垣はがっちりと笹塚の手を握り込んでいた。
「しょうがないなぁ。それじゃコレ先輩にあげますよ!」
自分より大きい手を左手で握り締めたまま、右手でコートのポケットというポケットを弄る。
「あれ、確かここに……アレ、こっちか、あれ?」
「別にいいよ……もう大丈夫だって」
「何言ってンすか、まだ……」
「――あのな、よく聞け、」
俺は今、どうしようもない恥ずかしさでいっぱいなんだけど。
溜息七割諦め三割で構成された言葉を吐いたと同時にちらりと視線を周囲に走らせれば、さっと視線を逸らした人間がちらほら数名。露骨に指差してニヤニヤしているような人間がいなかった事だけが唯一の救いだった。
「何か恥ずかしい事あるんすか?」
きょとんとした顔で事も無げにそんな事を言い放ち、コートから背広に捜索範囲を広げて尚も何か――恐らくはカイロか何かの類だろうが――を探していた。
「……お前、それマジで言ってんのか?」
公衆の面前で、三十路過ぎの男の手を、童顔とはいえ二十代の男が握り締めて、はあはあ息吹きかけてる、この状況を何とも思わないのかお前は?
そう言ってやろうと口を開きかけたが、何となくどうでもいいような気もして、寧ろそちらの方が方が強くなってきてしまい、結局何も言わずに為されるがままにした。
自分の手の方が大きく、はみ出してはいたものの、石垣の手は確かに温かかったから。


うっと息を吐き躰から力を抜くと同時に侵入してくる不躾なもの。押し出されるかのように息は寄せた皺の間を縫ってこの澱んだ空気に溶けていく。清潔とは言い難いがぎりぎりのラインで白と形容はされ得るだろうシーツに、ぽたりぽたりと落ちていくのは滑った透明な液体。汗、先走りの潤滑液。
熱い、硬い、異物は下に落ちる重力に従順な内臓をぐ、と無理矢理押し突き上げる。あぁ駄目だ駄目だ思いながらも抜けていく息の代わりに押し入ってくる熱を拒む事はしない。それどころか最後まで押し切られて躰に収められてしまえば、寧ろ異物は当然の存在になった。当為、そこに在るべきもの。ぽっかり空いた不安、空ろ、そういった漠然としたものを埋めるかのように、躰の虚に埋められる欲望、肉の塊。そこで初めて不完全だったものが完全になる。
五重塔のようにそそり立つ、そう勃起した性器を表現したのは自決した男。五重塔? そんな上等のものではない、唯自分の空ろを虚を塞ぐ為の肉の棒だ。下半身、背中寄り。疼く部分は腹よりも背骨に近いようで、それでも掻き回されれば腹の中が脹れた。
何度も幾度も繰り返される抽挿、内側、崩されるように揺さ振られ。慣れてしまうと今度は躰から熱の塊が引き抜かれるその瞬間が怖くなり、唯闇雲に自分から気を失うまで壊されるように抱かれた。意識のある内に、塞がれていた虚が元の虚に戻ってしまうのが不安で仕方がなかった。意識を現実に置いている限り、躰の中にはその熱を感じていたかった。
埋めたくて、何もないのか何かがあるのか自分でも解らない虚をどうにかしたくて。だから眼に見える虚は男の躰で、浅墓なセックスで。無機質な機械ではなくて熱を持ち暴力を持つ誰かの躰で。それ以外の虚は。――それ以外は、


とへとの状態でどうにかこうにか帰宅する。開けて、バタン、後ろ手に玄関を閉めて一拍、空気を吸い込んだと同時にその場に崩れ落ちる。足は鉛。躰は鉄屑。比重は幾つか。兎にも角にもいう事なんか聞きやしない。一歩、歩を進める事すら億劫で、その内息をする事も億劫になるのかもしれない。息をするしないは選択できない、自発的な躰の作用ではあるけれど。
それにしてもブリキの樵も真っ青の油の足りなさ、ぎしりぎしりと軋む骨。少し動かしただけで攣りそうに張っている筋肉。臆病なライオンより疲弊しているだろう、今日も必死に血液を送り出してくれる心臓。
死体を見た。今日も昨日も。今日は若い女、昨日は老人。死体を見る。現場を見る。それは仕事だ。それが仕事だ。仕事には毎日行かなければならない。生きる為に金が必要で、金を稼ぐ為に働く必要がある。単純明快それ以外の理論は欲してなどいない。解り易ければいい。複雑乱雑、入り乱れた関係など人を殺した殺されたの間だけでなされていればいい。いや、寧ろそれこそ単純。複雑なのは男と女の関係か、自分には縁のない世界の話。
――では、何故、生きるのだろう。
時々、影のようについて回るそれは、唐突に襲い掛かってくる獰猛な獣に変わる。何故生きる。何故。
玄関前に蹲る、一つの無機物にも似た塊を疑問符を伴った電気信号が走る。何故、何故。思考回路は正常、だからこそ景気良く電気信号は駆け回る。いっそ案山子に憧れる。疲れている時を狙って襲い掛かってくるそいつは、脳がなければそもそも存在すらしないだろう。
――何故、生きる。
殺した殺されたは案外実に単純で、では生きる死ぬも同様に単純か。
――何故、生きる。
電気信号はショートするでもなく、次第に病原菌へと変化していく。思考回路を侵し壊し使い物にならなくし、ぐずぐずに腐らせる。見るも無惨な屍体、成れの果ての腐敗からは発酵が起こり、そこでぼんやりと有機物である自分に目が覚める。――何故生きるのか。答えは無数にあり、でもきっと自分にはこれしかない。
――未だ死んでいないからだ。
それだけの理由で、無機物に限りなく近い有機物として存在していた。


っと一息吐いた後の石垣の莫迦な一言。
「ほっととhotをかけてホットコーヒーなのかと思ってたんすよねー」
莫迦だ。
「序でに富士山も日本一高いから敬称で『さん』つけて富士さんなのかと思ってたんすよー」
……莫迦だ。
そんな莫迦とコンビ組まされている哀れな身の上、悲しくなって無糖のくせに甘くない缶コーヒーを喉の奥に流し込んだ。


擬音で。

(20060114)