何者にも抜ける事の叶わない眠りの名を
何でもないような事が幸せだったと思うだなんて
何でもない事なんてもう覚えてすらいない
だって何でもない事だったのだ
何でもないから覚えてなんかなくて、だからこそ何でもない事だったのだ
虹を作るおじさんとその職業に憧れる少年の小さな小さな物語がとても好きで、それをよく妹にも聞かせていた。この記憶。白昼夢にすらならない確かに存在するこの記憶の所在は過去にしかなく、何度も何度も繰り返される。変なところで夢見がちなんだからとか頭いいのにロマンチストだねとか幼いままの妹の声がやたらと懐かしくて参る。ただ強張る皮膚に刺す光、凍えそうなほどの空の下、何もかもが遠くに思えて今の自分自身すら遠くに思えて、その場に立ち尽くして自分の立ち位置を確かめた。影は色濃く、その場に存在する自分はほぼ確実。esse
is percipi.バークレーの唱える世界でない限り、自分は他人に認められる形でこの世界に存在していた。
妹も父も母も存在していないこの世界に、自分独り確かに存在していた。
抜け殻残し、消え逝く蝉よりタチ悪く、貴方は何も遺さずに、姿を消した。
日常の風景からたとえ貴方が抹消されてもそれは日常で有り得たのだけれど、でも多分貴方自身は俺の中では日常では有り得ずに、いつだって非日常、特別のものだった。
会わない日も見かけもしない日もあったとしても、特別留意する事ではなかったのも事実だけれども、何というのだろう、あんな事の後、ずっと見かけない状態が続いたら続いたで、一気にずどん不安の塊落とされて破裂炸裂した、ような。
飛び散った不安の破片肉片全てを払拭する事は不可能、もう大丈夫だと安心できる地帯まで駆け抜け駆け込まなければ、いつだって気がついたら周囲は地雷原、ど真ん中に自分。一歩を出すか出さないか。――何度目かのその躊躇いの間に、見失った。
あんまりだあんまりじゃないか。眼の前からいなくなるなんて。何も遺さず何も言わずに消えてしまうなんて。何度も裏切られたのだと思っては何度もすぐに帰ってくるだろうという相反感情、巡りに巡って望ましい帰着点を行き過ぎる。
踏み潰す、握り潰す抜け殻すら遺してくれずに、開いては閉じる掌には何も残ってなどいない。飛び散った不安の残滓だけが脳に心にこびり付いたまま。
非日常を含まない日常、不完全のまま過ぎる今日。
ねぇ、どうして。どうして貴方はそんなに遠くばかり見つめるの。
素肌を晒したままの女にそんな事を問われて、あぁ、やっぱり幹部の女だけあるなと思った。勘が鋭い。頭で考える事などせずに躰と口が直結しているし、且つ齟齬なくきちんと連動している。男にはないそれが、随分と都合よく精密に出来ているのは羨ましい。――いや、女は皆こうだったか。久しく触れてなかった柔らかさに全てが曖昧で、言うべき言葉も思い浮かばない上に、取り立てて何か言う気も起きずにだんまりを決め込んだ。窓から見える暗い空に視線を沈める。じんわりと夜に馴染む眼を通して、何か鈍いものが沈澱していくのが解った。躰の中心がそれによって冷やされていく感覚と萎えていく実感。
「――それとも、女はつまらない?」
含まれた揶揄いに、女が自分と彼女の男との関係を知っているのだと知れた。何をどういえば言いというのか、何を求めているのか。男と自分の関係を秘密めかして囁き教えてやるべきか否か。渇いた舌の上には、空っぽの言葉すら乗っていなかった。
脳内麻薬の過剰分泌。薬とセックスのやり過ぎには気をつけましょう。
笑えないジョークで笑うしかない自分は、薬もセックスもやっていないから逆に欠乏症状に陥っているのだろうか。
躰がふわりとイく瞬間、その実は意識だけがふわりといく。意識がふっと躰から離れて、確かに、そう確かにその瞬間躰と魂は分離している。意識はふわり、脈打つ心臓はぶわり、不自由な肉体から本来自由であるべき魂が解き放たれる瞬間。
散々弄ばれた躰を手足伸ばして広い浴槽に沈める。うつ伏せで大の字になれば、背中は水面を出る、頭は沈む。ぐっと手足を収め縮めて躰を丸めれば、ぐるん、やはり頭は沈む。その感覚に近い。否応なく自然に任せれば浮く背中。その感覚。小さいくせに重い、頭蓋骨の中の脳、ペースト状。シナプス連結、電気信号送受信。
昂っている。そう思った。脳内の針が大きく振れて、寧ろ振り切って、許容値を完全にオーバーしている。過剰に分泌されているのはダウナー系、エンドルフィン。息をした瞬間に壊れる脆い世界はだからこそイける。沈むようでいて、上がっていく。何処までイけるか? 後少し、もう少し早くしないと、してくれないと、息が保たない。早く、早く、流れを、現実に引き戻される前に、この流れに乗ればイける――……
「――eishi」
無慈悲な声が聞こえた。
な:「何でもないような事が 幸せだったと思う
なんでもない夜の事 二度とは戻れない夜」
――『ロード』 THE 虎舞竜
に:「虹を作ってた 手を伸ばしたら消えてった
ブリキのジョウロをぶら下げて 立ち尽くした 昼下がり」
――『ハルジオン』 BUMP OF CHICKEN
ぬ:「抜け殻を残してく 背中 今日も空は 不完全」
――『水槽』 THE BACK HORN 『人間プログラム』収録
ね:「ねぇ 空は遠すぎる」
――『焼け野が原』 Cocco
の:はないので。
たくさんの感謝を込めて。
遠く及ばないながらも、彼ら彼女らの大切なうたの一部になぞらえて