掻き毟りたくなるほどの愚直な言葉を
甲斐性無しは男を下げるよ、筑紫。振り返ればそこに何かの授業で使うのか、分厚い洋書を小脇に抱え、笹塚さんが立っていた。色素の薄さが陽光をはね除けているようで少しばかり眼に痛い。「甲斐性無しって何の事ですか」 多分自分はその理由を知っていたけれど敢えて聞いた。「……その上イヤラシイのも男を下げてるな」「理由を聞いているだけですが」「解ってるくせに聞いてくるところがイヤラシイんだ」 少し眉間に皺を寄せて、自分を目線だけ動かして見上げ。自分が知っている事を相手に知られているのなんて百も承知で、だからといってここで退けば暫くネタにされるかもしれない――いや、確実にされる。選択肢は――退かない、しかない。「……――笹塚さん、」 それは、
嫉妬、……ですか?
明瞭に、余計な言葉を削いで、端的に。かわす事に長けた人間の逃げ道を、断つ。
――笹塚さんは幾度か瞬いて、次の瞬間、破顔一笑した。「おま、」 お前本当に男前だな……! 壊れたみたいに笑い出した笹塚さんに心底呆れて「甲斐性無しか男前かどっちかにして下さい」 澪せば、「甲斐性無しの男前って事だよ」 目尻に涙すら浮かべ、簡単に言い放ってくれた。
「近代市民社会と法は必ずしも噛み合ってはいない」
しかして何故噛み合わないのに変える事をしないのか? 「そもそも日本の法体系は独特だ」
元々パリ法科大学教授のボワソナードを中心にフランス法――名高いナポレオン法典を基礎とした――を参考に国会を通ったものを、日本の特殊事情故に廃案にし、「新たにプロシア法……これは本国では未施行なんだけどな……を参考にして、日本民法――明治民法を作り上げた」 プロシア法を基本としながらも、フランス民法の考え方も取り入れ、統一性がなく、矛盾があってもよしとする性格を有した民法が出来上がった。――じゃあ、筑紫、
「フランス法を参考にした旧民法を廃案にするに至った、『日本の特殊事情』は何だ?」
……笹塚に民法を教えて下さいと言ったのは自分だったが、まさかそんなところから始められるとは思ってもみなかった。「日本の特殊事情…ですか」「そう、講義じゃあんまり突っ込まない箇所だけどな……基本の基本、日本人の精神風土を知る事は大切だと俺は思うから」
事も無げにそう笹塚は言うが、正直に言って答えるのが躊躇われた。自分だけが過剰に意識している事は理解した上で、躊躇った。「筑紫、解ってるのに言わないのは、結局解っていないって見なされるんだよ」
少なくとも、法律を扱う者の中では。そう言う笹塚の言葉の端に少しばかりの挑発を認め、筑紫は一呼吸置いた。「……フランス民法は個人主義ですが、当時日本は家族中心主義でした。その中で、男は側室……妾を囲う事も一種のステイタスとして、同時にその面倒を見る事も男の甲斐性だとされ、責任でもありました。ですが、」
フランス流の個人主義を突き詰めれば、男が正妻以外の女性の面倒を見なければならない『法に反した』責任なんてものはなくなります。「その時代まで綿々と受け継がれてきた『法に反した関係』の伝統――『道徳』『倫理』と言ってもいいかもしれませんが――を、当然の事として受け継いでいた国の中心部は、自らのステイタスを否定する事になってしまう。……ですから、」
フランス民法を参考にした旧民法を廃案にせざるを得なかった。
言葉を続けていく最中、苦々しいものが心の中に広がったが、それを面には出さなかった。だが、笹塚と眼を合わせる事は出来ず、自然、俯きがちになっていた。
「……ちゃんと解ってるじゃないか」 意外そうな声に緩慢な動きで顔を上げれば、苦笑を浮かべたまま笹塚は続けた。「何もそんな後ろめたい事してるような顔で言わなくてもいいだろうに」 俺がお前を虐めているみたいじゃないか。「……そうじゃ、ないんですか」 片眉を上げて抗議の意を軽く表わせてみせれば、笹塚はそれこそ心外といったように大仰に肩を竦めた。「何か俺に疚しい事でも隠してるのか、筑紫?」 ――最終的に、ここに行き着かせたかったのか、自分で白状するように持っていきたかったのか。
「……本当に、貴方は意地が悪い」 非難がましくなったが構いはしなかった。「誘導尋問は有効的ではありませんよ」
筑紫の衒いのない批判に、笹塚は――困ったように哂った。「どうにも履き違えてるな、お前」
俺が言いたいのは『そっち』じゃない。「……?」 笹塚が何を言いたいのか解らずに、無言になった筑紫に、再度「『そっち』じゃない。『そっち』は正しい事なんだよ」 繰り返した。
「そっちって何の事を言いたいんですか、笹塚さん」 歯切れの悪い笹塚に痺れを切らして問えば。「――先人は法よりも道徳・倫理を取った」
なぁ、筑紫、
「俺たちは法には適っているかもしれない、」 ……でもな、
「倫理に悖る行為なんじゃないかって、時々どうしてだか怖くなるんだ」
その時の笹塚の顔は、よく見えなかった。どんな表情だったのか、今も解らないまま。
「苦しいから、筑紫、力緩めろよ」
「嫌ですよ、すぐに逃げるじゃないですか」
「逃げるだろ、逃げなきゃ勝てない」
「勝たないでいいです。負けて下さい」
「嫌です。俺は勝ちたいんです」
「笹塚さん、聞き分け悪い上に往生際も悪いですよ」
「……筑紫、」
普段組み敷かれてやってるんだから、こんな時くらい年上に花持たせろよ
「……笹塚さん、もしかして、」
抱く側になりたいなんて言うんじゃ、
……――お、ま、え、ら、
「今が柔道の時間だって解っていての会話なんだろうな!!?」
「冗談だよ笛吹、ユーモア精神をもっと持て。なぁ、お前もそう思わねぇ、筑紫?」
「冗談、なんですか。本当ですか、」
「……お前ももっとユーモアを持て」
健康診断、いつも笹塚は引っ掛かり再診を受けていた。「低血圧過ぎるんでしょう」 例の如く筑紫は再診日の前日から笹塚のアパートに泊まっていた。「再診受けないで自腹切るのも莫迦らしいって言ったのは笹塚さんで、起きられないと困るから泊まって朝起こせって言ったのも笹塚さんですからね」
「そりゃそうだけど」 だからってそんな飯の支度とかやらなくてもいいよ、奢るって言ってんだからさ。呆れ顔の笹塚を横目に、「特技が冷蔵庫の中身腐らせる事、なんてのは今時流行りませんよ」 手際よく、笹塚自身が使い慣れていない包丁を使って調理していく。「お前、実家通いだろ? なのに何でそんなに慣れてるんだ」 肩越しに筑紫の手元、切られた食材を見つつ「――もしかしなくても恋人にでも作ってるのか、男前?」
笑って仏頂面の男を軽く小突く。「そんなに仏頂面して、朗らか柔らか和やかに、恋人といるような気楽さでいこうや」 なぁ? あくまで軽さを保って言えば、「……笹塚さん、」 お願いですから、そういう反応に困る事は言わないで下さい。答えた声は底冷えていて、その反応があんまりにも意外で、笹塚は眼を見張った。
「――筑紫?」 何か不味い事、言ったか俺? 自覚していない笹塚を見る眼を眇め、視線を逸らし。トトン、包丁を軽快に動かし始める。手元だけに視線を集中させ。「それを真顔で言うから貴方はタチが悪いんです」 筑紫にしては口悪く言った。「――俺は、貴方ほど割り切れているわけじゃない」
包丁の音が、トト……ン、途切れ、そのままカタン、置かれたまな板の上。
「――筑、紫、」 その後に継ごうとした言葉は、乱暴なキスに奪われた。
恋というには近過ぎて、愛というには遠過ぎる。そんな感じだな。笹塚が呟いた言葉に、都々逸か? 問えば俺も判んねぇな。忘れちまったよ。簡潔な答え。「お前が恋だとか愛だとか言うと薄ら寒くなるから言うな」 毒吐いた自分に向かって笹塚は「お前が言うよりかマシだよ、笛吹」 笑われて「そんな戯言抜かしている暇があるんだったら六法でも読んでろ、莫迦め」 返した言葉は我ながら幼稚だった。
笹塚を多角的に見てみよう作文2。学生時代中心。五十音であとサ行からワ行まで
民法のところに関しては信じないで下さい
嘘ではありませんが