半夏生
山崎の記憶の果てにはぽつりぽつりと滲んだ斑点がある。
それは拾われた時の土方の黒だったり、今はもう思い出せない誰かの着物の白だったり。散るばかりで一点に集まろうとしないそれら斑の一つに、赤いものがある。多分血の色だろうと山崎は思っていた。いつも現れる度に、それは奇妙な言葉を伴った。「――血の一滴は千人の友に勝る」、その言葉。その血は自分の血か、斬ったか殺したかした相手の血か、その赤は一つだけではなく、花火の様に脳の暗闇に咲いては崩れて堕ちていき、掴み所のないままに解けてしまうのが常だった。
そういうの、ないですか? 当番が一緒だった際に沖田に聞いてみれば、彼は目線だけをちらりこちらに寄越し、涼やかなその口元に意味ありげな笑みを浮かべた。
「案外山崎、記憶力あったんですねぇ」
「うわ、何ですか俺がバカみたいなその言い草!!!」
「……」
「あ、『だってバカじゃないですかぃ』とか思ってんでしょうその眼!!!」
「……」
「知ってます、沖田さん、右の口元では簡単に笑えるけれど、左側って嘘の笑い出来ないんですよ!!?」
だから右だけで笑ってるのは嘘の笑いで、正しく今の沖田さんは嘘の笑いなんですよ!!
「ついにオレらも以心伝心な仲になったって事かねぇ、山崎」
世の中ポジティブ・シンキングでGoでぇ。
カラカラ笑う沖田の、自分より低い位置にあるその頭をぱこん、軽く平手で殴る。
「強引過ぎるポジティブ・シンキングは止めろっての!!!」
「お、山崎ぃ、隊長格に手挙げるとはご法度でさぁ」
「あ、つい癖で……って止めて刀収めていやぁあああ眼が笑ってるぅぅううううっ!!」
ゆらり揺れた沖田の痩躯、その細腕が自分に刀を振るう前に、山崎は当初の問いを置き去りにしたまま、監察で鍛えた足で一目散に逃げ出した。
サガル、起きろぃ。
夏も終わり、夜の空気に肌が寒くなってくる頃、酒の場の勢いで道場の連中と共に雑魚寝をしていた退は――自身は一滴たりとも飲まなかったが――、肩を揺すられふつん、意識が醒めた。そのまま眼を数回瞬かせ、完全には醒めていない躰、上半身を起こした。
「……ソウゴ、さん?」
自分を起こした張本人を呼べば、「しっ」とすぐに口元に手を当てられ、黙る様に素振りで伝えられる。
「イイモン見つけたんでさ、外、出るぜぃ」
小さく、しかし嬉しさを滲ませた弾む声で総悟は退の着物をくい、引っ張った。総悟の眼には悪戯をする時の様な楽しげな色合いがちらちら見え、退は不安げに眉根を寄せた。
「……近藤さんや土方さんには……」
「勿論内緒に決まってんで」
さも当然の様に言葉を続けた総悟に、軽く嘆息するも羨ましさも覚える。こういう奔放さは自分にはない。
「外って、遠くまで?」
あんまり遠いのは、そう思い短く確認すると、細い首を左右に振った。
「切腹番長は兎も角、近藤さんに心配かけるのは本意じゃねぇ」
「せ、切腹番長……土方さんの事ですか?」
恐る恐る尋ねると、「お、ちゃんと解ってんで」、にか、笑みを見せた。
「何か本人が切腹大好き、みたいな語感もしやすがね、それだったらどんだけ嬉しいのに」
残念ながら本人「が」切腹命じるの好きなだけでぇ。心底残念そうな口振りなのが真実なのか総悟流の洒落なのか、判別が付かずに退は引き攣った笑いで誤魔化した。
「ま、何にせよ早く行きやしょう、何、道場のすぐ裏手でさぁ。遠くないだろぃ?」
急かされてのそり退は立ち上がり、腰を屈めながら周囲の様子を見ながら総悟の後について行った。
「あ、コレ……」
総悟の後について道場の裏手に来た退は、その手に握られている物を見て声を弾ませた。
「前にやった花火の残りですか……!?」
「その通り」 と言ってもこんなもんしか残ってなかったんだけどねぇ。ぶんぶん振ってみせたのは数本に束ねた線香花火。先日大量に花火を仕入れてきた近藤が、今年の夏最後の花火大会をしようと突如言い出し、道場の連中で一晩中大騒ぎした際の残りだろう。当初あからさまに不機嫌な顔をしていた土方も、最終的に酒を持ち出して苦笑いしながら見ていたのを退は覚えていた。
「皆が皆派手なのばっか選んでやるもんだから、余っちまったんで」
こういう地味なのも、結構俺好きなんだぃ。しゃがんだ総悟に従って退も向かい合ってしゃがんだ。ごそごそと袂を漁って取り出したマッチ箱と紙切れをぽん、総悟は条件反射で出された退の掌に落とした。
「それ、もう一本しかないから一応紙にも火点けるかぃ。適当に裂いておいてくだせぇ」
言いながら線香花火を結わっていた紐を解いて二つに分けると、片方を退の足下に押しやった。退は、マッチ箱を地に置くと、紙切れの方をび、びっとなるべく繊維の面を広く出す様にして裂いた。風に飛ばされないように自分を壁にして、裂いた紙を積んでいった。
「お、そんな感じでいいんじゃないかぃ?」
マッチ箱を掴み、中から唯一にして最後の一本取り出すと手馴れた様子でしゅっ、擦って火を点けた。
ぼっと総悟の顔が橙に照らされ、「退、」 その山に火移すから、ちょっとこっちに寄せて。その言葉に、すすっと柔らかく積まれた紙の山を総悟の方に押し出した。手際良く紙と紙の隙間に火を差し込み、剥き出しにされた繊維をはしりに上手く燃え移るのを見ると、「成功成功」 にかぁ、退に笑ってみせた。
「さて、それじゃメインに行くかぃ」
線香花火、自分の分を一掴みにすると、そのまま先端を火の中に落とした。橙に燃える火の中で、線香花火の先がちり、赤くなったのを見てすぐさま火から離し。退も慌てて分けられた花火を一本、掴むと火の中に先端を垂らした。総悟のものより、自分の持つ花火は火が移るまで暫し時間を要した。
――他に騒がしい、煩いばかりの光は一切なく。月は上弦、白い涼やかな光のみを皓々と小さな二つの背中に降らした。互いの顔は、紙に僅かに残る燻った火と線香花火の灯りでちりちりと朱に染められ。総悟の持つ線香花火が、その名に似つかわしくないほどにばちばちと四方八方赤い火花を飛ばし、段々まとまり丸くなっていくのを見て、退は自身の持つ、一本だけ垂らされたものと較べて小さく笑った。総悟さんのは凄い事になってますね、そう言おうと立ち昇る煙の先にある顔に視線をやった。
「――あ!」
落ちる、今まさにぽとり、丸く膨れ上がった白い球が落ちる、瞬間。
総悟の声に反射的に手を出し落ちる球を受け止めようとした、がその手は払われる。垂直、ぽと、暗い地に白が沈む様に消え、残像が縦一直線、降る矢の様に退の眼に焼きついた。
「――危ねぇよ、退、」 火傷はしてねぇな? ふぅ、一息吐き、「もう火種もねぇし、退の見て楽しむか」 笑った。
「……滴る様に、落ちるんですね、」 独白した退の顔を、総悟は眼を眇めて見た。「退?」
総悟の問いかけに答えずに、退は花火の燃える先端にだけ焦点を合わせ。まるで魅入られた様に。「何か、」
白い血、みたい、で。
唐突なその独白、しかし退の口から出た事にすぐに違和感を覚えなかった総悟は舌打ちしたい気分になった。退に向けてではなく、自分に対して。総悟は道場に来る前の退の事を何も知らなかったが、退が恐らく自分より「死」に触れてきただろう事を本能に近い感覚で解っていた。一つ、細く短い溜息を吐き出すと「――知ってるかい、」 一つ一つの言葉をはっきり、明瞭な響きをもって紡いだ。退の視線、怪訝な表情が自分を見ているのを感じた。その視線を流し、退の手元、赤い火花が白い球に収縮していくのに眼をやりながら。
知ってるかい、退
『血の一滴は千人の友に勝る』っていう言葉があるんで
今、俺が落としたの、受けようとしてくれたから
今の、俺の血で、オメェの血で、だから
――絶対、俺の眼の前では死なせねぇから
退、オメェは俺のダチだから
オメェの為なら、千人の敵、斬り捨ててやりまさぁ
、ぽと。
直下に落下、萎んでいく光。
途切れる事もなく言い切った、その総悟の言葉に退の眼が大きく開かれた。
「総悟さん……?」
たどたどと切り出した退の、その後に続くであろう台詞を聞く前に「あー、退のも落ちちゃったねぇ」 翳を見せる事なく笑い、退の言葉を奪った。すくっと立ち上がると、紙の燃え残りを足で散らし、空のマッチ箱に花火の残骸をくしゃくしゃにして詰め、手の中に納めた。
「ゴミは持ち帰りましょう――って言うし」
そろそろ戻るかぃ。総悟が退に向かって言えば、小さく頷きのったりと立ち上がった。「今日のお月さんもキレイだねぇ」 歌う様に手の中のマッチ箱を放って遊びながら先を行く総悟の背を、何処かもどかしげな表情をして退は見つめた。月の光に伸びる影を追い越そうとしても追い越せない、それに似たもどかしさ。心が疼く、様な。
「――退、」
自分の視線を感じていたのか否か、総悟は月を見たまま、「忘れてくだせぇ」 一言、漏らした。――俺が言った事、忘れてくだせぇ。
退はそれには応えなかった。はい、もいいえも何も答えずに、唯沈黙した。その態度に、総悟は口元に小さな笑みを浮かべた。――確信のない約束を出来ない退を、何て莫迦で、何て正直なのだろうと思った。自分にはないそれが、少し羨ましかった。
「山崎の奴、意外に覚えてんだなぁ」
脱兎の如く逃げ出し、今はもうその背中すら見えない山崎に一人置き去りにされた沖田は、思案する表情を浮かべて一人ごちた。山崎が道場に来てからの前後、その記憶が途切れ途切れになっている事は知っていたから、恐らくあの時の事もすっかり忘れているのだろうと思っていた。
随分とポエマーだったからねぇ昔は。くくっと咽喉の奥で笑った。
――ダチだから、と。言ったのは山崎が同世代の人間だったのと同時に、自分とは正反対の人間だったからだ。幾ら剣の腕を褒められても、沖田は当時、人を斬った事はなかった。一方の山崎は、剣の腕は沖田に劣っていたが、それでも沖田の知らない「死」を知っていた。その温度差に、妙な安心感に似た気楽さと繋がりを覚えた。
(血の一滴は、か)
過去に自分が持ち出したその言葉を、口に乗せてみる。
あれから、数多の血の海を死体を掻き分け踏み躙り走ってきた。一滴どころじゃない、それは既に海と言い換えても良いだろう。切り捨ててきた人間の赤い海。
それでも、沖田は思う。それでも、山崎に、仲間に一滴の血も流させまいと。幻想だ、既に山崎は何度となく任務で血を流している。
それでも。
(あれは、俺の約束でぇ)
一方的で、相手から何の応えもなかったけれど――それは自身が聞こうとしなかったからで、確かにあれは自身に課した約束だったのだ。誓いなどという大仰なものではなく、小指を絡めてする様な些細な約束。
「約束、だったんで」
言葉にしてみる。その重さは、解らなかったが。
――仲間に一滴の血でも流させるくらいなら、千の敵を。
噛み締める様に、静かに。――約束は果たす為にあるんでしょう。口の中で消えるほどの声で呟いた。
これから先も、自分はその約束を果たそうとするのだろう。血を流させない為に敵を斬り倒していくのだろう。血で血を洗うが如く。
「……因果なモンで」
苦笑い一つ、吐き。沖田は町中に消えた山崎の姿を捜し始めた。