銀魂

負け犬に月、濡れ犬に傘を (慣)

春うららかな、肌が暖かな空気に包まれた様にほかりとなる日。屯所の廊下を右に左に、覚束ない足取りで歩く小さな躰が一つ。


「サガル、何やってんでぇ」
足が酔っぱらいみてぇに千鳥足になってるぜぃ。
ぺたり、ぺたり、裸足で廊下を渡る音に、道場から戻っていた総悟が僅かに開けた障子の間から首を突き出して見れば、いつもならばぴんと立っている耳をくにっと垂れて、退がふらりふらりと歩いていた。見える背中は曲がっていて、前につんのめる様に、ともすれば廊下から落ちそうな危なげな様子に気付き、「危ねぇからやめなせぇ」、ととっと近寄って退の腕を掴んだ。
「――総悟さん、ですか」
退は腕を掴まれた瞬間、びくり躰を震わせ、同時に耳がぴん、と立った。「そうで、声掛けたじゃねぇかぃ」、言えば、「半分寝てたみたいで……」、退は困った様にふにゃりと笑った。
「夜きちんと寝てねぇのかぃ?」
問うた後、(そういえば、) 総悟は一昨日か、それ以前か、隊士が道場の稽古の合間に話していた事を思い出した。

『最近、近藤さんが連れてきたガキ、いるじゃねぇか』
『俺達と一緒の部屋で寝てんだけどさ』
『この間夜中にふっと目を覚ました時、未だアイツ起きてたんだよ』
『布団の上でさ、膝抱えてじいぃっとしてて。両耳立てて』
『俺が目を覚ました時点で気付いてたみてぇで、目が合った時、唯でさえデカイ目ん玉、更にひん剥いてこっち見たんだよ』
『――凄ぇ』

「――サガル、おめぇ」
隊士が言っていた事と同じ事を聞いてみようとした途端、「総悟てめぇ!!!」、土方の怒声が背中に降って来た。
「何でこの時間帯にンな所にいやがるんだ、今は未だ稽古の最中だろうが!!!」
どすどすと廊下を踏み鳴らし、黒の着流し、普段着だった土方は総悟の首根を掴もうと腕をぐいっと伸ばしたが、身軽な総悟はさっと躰を反転させ、その腕をかわした。伸ばされた腕は、びくりと躰を竦めた退の眼の前で止まった。
「……お前は、」 腕を引っ込め、眉根を深く寄せて睨む。「庭と大部屋の掃除が、」
「――あ、あの、今終わって、」
「それは、午前中に終わっていていいはずの仕事で、今は書き取り勉強してる時間じゃねぇのか」
睨まれた方の退は、しどろもどろになりながら答えたが、土方のもっともな指摘に言葉が詰まる。土方が自分の事を快く思っていない事がありありと見える、苦々しげな表情に、自然眼が伏せがちになった。耳が、垂れて。
「――何もそんな嚇す様な言い方しないでいいだろうに、アンタも」
総悟が助け舟を出す。「こんな小せぇガキ嚇す様じゃ、これから先が案じられるねぇ」
「嚇してなんかねぇ」 矛先を総悟に向けた土方は、それでも横目に退を見ながら言った。
「ここに居る以上、やるべき事はやって貰わなきゃ困るんだよ」
じゃなきゃ他の奴らに示しがつかねぇ。その正論に、やれやれ、総悟は肩を竦めた。
「サガルはやらねぇって言ってるわけじゃねぇんで。やれる事からちゃんとやってんだから、そこら辺融通利かせてやるのが『大人』ってもんですぜ、土方さん」
子供のなりはしているが、既に『大人』になっている総悟の言葉に、土方はこれ以上ないくらいに顔を顰めた。苦虫を噛み潰した様な渋面で、「口ばっかり達者だな、テメェは」 吐き捨てた。
「褒め言葉として受け取っときまさぁ」、全く意に介していない総悟の態度に、更に険悪な雰囲気になる。
退はその間で、自分の事が原因だと解っているだけにどうしようもなく居た堪れなくなり。「俺、直ぐに部屋に行きますから、」 だからお二人とも、言おうとした時。
「なーにこんな所で油売ってんだお前ら!!」
「――近藤さん、」
救いを見出したかの様な退の声に、土方と総悟も振り返る。会談が早く終わっちまってなぁ、笑いながらやって来た近藤は、その場の沈んだ空気に「どうした?」 疑問符を浮かべながら訊いた。
「何でも――」
「サガル、夜眠れねぇみたいなんでさぁ」
土方の言葉を遮り、総悟が言った。「それで昼間の仕事に色々支障が出ちまって、土方さんが大人気なくも頭ごなしにサガルを叱ってたんで」、そう言った総悟の言葉に、近藤ばかりでなく退自身も驚いた様に眼を見開いた。土方は、僅かに片方の眉尻を上げただけで。
どうして、小さく退は呟いた。どうして知っているんですか。
「退、お前夜ちゃんと寝てないのか?」
そんなんじゃ躰壊すぞ、健康に良くないぞ? 近藤が屈んで、心配そうに退の顔を覗き込む。頬に手を当てれば、ふにり、柔らかいが、少しかさついた感触。
「何か気にかかる事でもあるのか? あるんだったら遠慮なく言っていいんだからな?」
一緒の部屋の奴らのいびきが煩いとか、屁ぇこくとか、寝相が悪いとか、もう何か部屋そのものが臭いとか、そういうのか? 立て続けに言った近藤の言葉に、ぶんぶん、首を横に振って否定した。
「そういうんじゃないんです」
そういうんじゃ、続け、しかしそこで言葉を途切らせた退の言葉を、また総悟が拾った。
「警戒、しちまうんでしょう」
退の表情が強張り。眼の焦点が、眼の前の近藤にではなく、どこか遠い所で結ばれた。虚ろとはまた違う、その眼の奥に何かを仕舞い込んだ様な。
「――どういう事だ、テメェ」
それを見た土方は、低い、地を這う様な声で聞いた。「屯所の人間、信用してねぇのかよ」
怒りを隠そうともせず、その声に滲ませ。退は反応を返さずに、唯、ぎゅっと下唇を噛み締めるだけで。
「――っテメェ……」 拳を固めた刹那。――落ち着けって、トシ。酷く、場違いに思われるほどに落ち着いた近藤の声が耳に入った。
「クールが売りの真選組副長が、そんなカッカしちゃいけねぇだろ?」
視線だけを土方に寄越し、それだけで土方は固めた拳を解いた。
「……でもよ、近藤さん、」 そいつは、尚も言い募ろうとする不満げな土方を、まぁまぁ、苦笑しつつ宥め。それから退に視線を戻した。
「――なぁ、退、」
俺らは家族だけど、言ってくれなきゃ、それでもやっぱり解んねぇからよ。
ぽん、退の頭に軽く手を置くと、ぴくり反応し、眼の焦点が近藤に合わせられた。カゾク、退が唇を小さく動かせば、「そうだ、」 近藤は再度ぽんぽん、頭を軽く叩いた。
「お前、――夜、眠るのが怖ぇのか?」
何かされるんじゃないのかって、警戒しちまうのか?
「そんなんじゃ……!!」 近藤の言葉を激しく否定し、「……そうじゃ、ないんです……」 俯いた。
近藤と、土方と、総悟と。三人の視線を受け、退は僅かな間逡巡していたが、やがて「……ここに、連れて来て貰う前、」 ぽつりぽつり、話し出した。

「ここに、来る前、ずっと外で暮らしてたから、夜は、危なかったんです」
「冬場は冷え込むし、冬場じゃなくたって、闇夜に紛れて、追剥や強盗がいたし」
「だから、なるだけ夜はずっと起きていて、残飯貰いに行ったり漁りに行ったりして、」
「灯りのある場所に、いるようにして」
「昼間は、夜ほどには危なくないから、昼間に眠っていたんです」
「その方が、ずっと体力消耗せずに済むし、安全だったから」
「それで、今でもその習慣が抜けなくて、」
「隊士の皆さんを、信用していないわけじゃないんです、」

……ごめんなさい、退は俯いたまま、誰にともなく謝った。
近藤も、土方も、総悟すら何も言わずに。ここまで、退が街の中で夜の中で生きていく術をその身に染み込ませていたとは、誰も思っていなかった。単純な智恵、それでも、街の中で子供が一人生きていくには重要な事。退が過ごしてきた日々は、何も退だけの事ではなく、今もそういう子供が大勢江戸の街にはいるのだと三人は知っていた。重い沈黙にその場が支配されそうになった時、「――ったく、」 土方が溜息をつく様に言葉を発した。
「――だから、今眠気が襲ってきてるって、そういう状態なんだな」
お前は。そう言えば、退は更に深く俯いた。すみません、小さく小さく呟いて。
「別に謝る事じゃねぇだろうが、」苦々しい口調で吐き捨てれば、――総悟、傍らの少年に視線をやった。「お前あの爺さんに今日は勉強なしだって言って来い。んで、お前は、」 退の方に向き直り、
「――俺の部屋に来い」
――発言した本人以外の眼が点になり、「……色小姓にすんじゃねぇでしょうね、アンタ」 総悟の疑惑に満ちた視線と発言を、「馬鹿かテメェは!!!」 一蹴した。眉間に皺を寄せたまま、袂からいつもの煙草を取り出して一本咥える。
「このまま勉強させても無駄だろうし、かと言って大部屋にこいつ寝かせたまんまだったら他の隊士に示しつかねぇ。だったら、」
俺の部屋に転がしとくのが一番都合良いだろうが。安物のライターで煙草に火を点けながら土方は言った。――ふぅ、細く紫煙を吐き出し、他の三人を見れば。
「――っ、良かったなぁ退!! トシが昼寝を許してくれたぞ!!」
「あン人は自分に甘いくせに他人に厳しいから、これはお得ですぜ、サガル。今日一日だけかもしれやせんが、まぁ寝ときなせぇ」
「そうそう、んでちょっとずつ慣らしていけばいいし!! 今眠いんだったら今寝とけ!!」
「あぁ、変な事されそうになったら遠慮なく股間のもんに蹴り入れな。悶絶もんでぇ。奴の種を根絶やしにするんで」
「どさくさに紛れておかしな事吹き込んでんじゃねェよ総悟ぉぉッ」
それぞれが勝手に言葉を発する中で、「でも、」 退は躊躇いを見せた。「……土方さんにご迷惑が……」
「――今更だろうが、」 遮り、土方は腕を伸ばすと、退の髪をくしゃくしゃっ、乱暴にかき回した。
「――」
「怒鳴って悪かったな、」
退、と。
また、土方以外の面々が――退自身も――目を点にして。
一拍、
「――と、トシが謝ったあああぁぁっ!!!!!」
近藤の大声が、屯所内に響き、谺した。
「うるせぇんだよアンタは!!!!」
俺が謝っちゃ悪いのかよあぁだったら金輪際謝らねぇぞこの野郎!!! 負けず劣らず、土方も怒鳴り返し、「ホラ、さっさと行くぞ!!」 乱暴に退の腕を掴み躰を引き寄せると、そのまま肩に担いだ。退の耳がぴん、と立ち。
「――ひ、土方さん……!!」
「黙って運ばれろ!」
総悟、忘れずに爺さんの所に行けよ、あの人絶対いつまでも待ってんに決まってんだからよ。
言い置いて、土方は一種の恐怖に身を縮こませる退に「テメェもそんなに躰硬くしてんじゃねぇ、俺に男色趣味はねぇんだよ!!」 また怒鳴り。
「すみませ……わっ、ぶっ」
「その謝り癖も直せ!!! 何にでも謝るもんじゃねぇ、謝る時に謝ればいいんだからよ」
「そうそう、まぁ土方さんは謝る時にも謝らないタイプだから、手本にしちゃいけませんぜ」
「あ、でも今はちゃんとトシ謝ったぞ」
「竹の花咲くより珍しい事でさぁ」
「総悟、テメェはさっさと行け!! 近藤さんは早く会談終わったんだ、溜まってる書類に目ぇ通して判押しとけ!!」
好き勝手に言葉を交わす外野の二人に、適当な指示を出すと、大股で歩き出し。
土方に担がれ、揺られながら、名前、退って初めて呼んで貰ったなぁ、退は少し嬉しくなった。


春の日差し暖かい、ある日の出来事。


真選組:「お昼寝」「子山好きに10のお題」の三