負け犬に月、濡れ犬に傘を (始)
何となく嫌な予感がしていたのだ。
「……返してこい」
無下に言い放った土方を、近藤はその眉間を寄せて「トシぃ、」見ながら情けない声を出した。
近藤の帰りが遅く、土方が今まさに迎えに行こうと門まで出た時だった。近藤は「おおぃ、トシぃ!!」、大声で自分の名を呼びながら帰ってきた。
「近藤さん、」遅くなる時は予め言っておいてくれって前にも言っただろう、安堵の溜息と共にそう続けようとした言葉は、近藤の右に見えた小さな躯を見つけて止まった。
嫌な予感は、これだったのか。土方は安堵ではなく、呆れる様に溜息を吐いた。
「なぁ、トシー」
大の大人であるはずの近藤は、己の前の腕を組んだ咥え煙草の年下の男に向かって、再度「良いだろう?」、訊いた。服に覆われていても判るしなやかな体躯に、濡れた漆黒の色をした髪。それだけで上等な黒猫を彷彿させる土方は、涼やかな眼をすぅ、細めて言った。
「アンタが返してこないんだったら、俺が行ってやるよ。その餓鬼こっちに寄越せ」
「トシっ」
何もそんな言い方をしなくたっていいだろう、こいつは犬猫じゃねぇんだぞ。近藤が僅かに怒気を声に滲ませながら言えば、土方は対称的に全くの無感情だった。
「アンタの方こそ勘違いしてるんじゃねぇのか」
近藤さん。その右手に繋がれた幼い手、その先を見やった。背丈のほどは、丁度近藤の体躯の半分、腰の辺りまで。近藤の上着を重ねられてはいたが、その下には薄汚い襤褸を纏っていた。覗く肌は随分と乾燥していて、肋骨が浮いて出て。肩辺りまで伸びた――伸びるがままにさせていたのだろう、艶を失った黒髪。簾の様な髪の間から見える目玉は矢鱈とぐりっとしていて大きく。少年、と言っていいのか。幼さばかり目立つ様な顔。耳には、
「そんな大人にもなってねぇ餓鬼、ここに連れてきて何になるって言うんだよ」
――柴犬の、耳。
「……こいつ、売られそうになってたんだよ、」
そうしたら、まともに『大人』になれるわけ、ないじゃねぇか。
己の右側にいる少年を、真上から見下ろす。そうすれば、少年はそのぐりっとしたどんぐりの様な眼を、またぐるりと動かして近藤を見上げた。幼い、まだ幼い少年なのだ。「コンドウさん?」少年が小さな口を小さく動かして問えば、近藤は「大丈夫だからな、」眦を下げてがしがしっと、その蓬髪をかき回した。
その様子を静かに見ていた土方は、露骨に顔を顰め、不快感を露わにして吐き捨てた。
「バカか、アンタは」
『此処』に連れて来たって、まともに『大人』になれる保障なんて皆無だろうが。
土方の言葉は残酷ではあったが真実で、近藤はがし……、少年の頭をかき回していた手を止めた。
「そうかも、しれねぇ。……でも、」
本人がこんな小せぇ内に、何も解らない状態のまま『大人』にならせたくねぇんだ。
誰を思い描いているのかは解らない、顔を伏せた近藤は一瞬遠い眼をし、ゆっくり、緩慢な動作で顔を上げた。
(ああ、)
駄目だ、土方は心中で白旗を持つ準備をした。こういう時の近藤に、自分は勝てた験しがない。
「頼む、」
――。
下の名をを呼ばれ、そう呼ぶ事を土方は近藤にだけしか許していない土方は、深く煙草を吸い、そうして細く細く煙を吐き出した。
いつも、だ。土方は見えない白旗をひらり、振った。いつもこうやって最後には絆されてしまう。繰り返しても、学ばない自分を哂う。学習能力ってもんがないんでさぁ、生意気で減らず口のあいつなら、そう言うだろう。自分は多分一生、近藤だけに甘いのだ。
(こればかりは、もうどうしようもねぇな)
土方は煙草を指に挟むと、くい、顎で近藤の脇にいる少年を指し示した。びくり、少年の躯が揺れたのが解った。
「そいつの躾だとか、そういうのは全部アンタがやってくれんのか?」
そんな時間あるのか、と言外に訊かれ、近藤はうっ、と言葉に詰まった。
「それは……それは……、うん、皆で育てるんだ!! 皆で、皆で!!!!」
屯所一丸となって!!!! 頑張れ俺等!!!!
ぐっと握り拳をつくり、声高らかに宣言して見せた近藤は、「なぁーっ」、脇の少年に、にかぁと大きく笑いかけた。それに応える様に、にへらぁ、アイスが溶ける様なふにゃりとした笑みを見せた。「コンドウさん、コンドウさん」、繰り返す少年の躯を軽々と持ち上げると、そのまま肩車した。
「コンドウさん!?」
「これから顔見せだー!!」
行くぞぅ、サガル!!
そのままどかどかと屯所内に走って入って行った。
(そういや、)
あの餓鬼の名前、聞いてなかったな。今更になって、土方は思った。