身罷れる美しき空に
遥か昔の事でもないが、以前その場所からは高い空が見えた。
空が変わっていく、時の移ろいなぞ風流な事を楽しむ趣味を山崎は持っていなかった。唯仕事柄空の変化は天気の変化に繋がり、差し障りがあるか否かを判ずるのに必要だった。風が湿り、空の向こうに陰々たる雲が見えてからでは遅いのだ。それよりももっと前に、空に灰色の雲が薄く薄くかかる、ともなれば霞がかったと表現される程度であっても、雨の奔りなのか、そうであればそれから雨がどのくらいで降り始めるのかが解らなければ、意味はなかった。頭から天気予報というものを信用していなかったので。
山崎の中では、空模様を見る事も仕事の一つであり、そうして自然と仕事ではなく習慣になっていた。
「どこ行った山崎ぃっ!!!」
上司の声が屯所内に広く響き、山崎ははっと目を覚ました。久し振りの非番に、バドミントンをやろうにも相手をしてくれる様な適当な人間が見つからなかった為、仕方なく一人屯所の屋根の上で空を仰いでいたのだ。屯所の屋根の上に上がる事を土方は禁じていたが、それは主に瓦を傷める人間がいたからで、危険だからとかそういった類の事が原因ではなかった。瓦を傷めていた張本人は、禁じられて以降素直に従い、屯所内をバズーカで吹き飛ばす様になったが。
山崎も平素は屋根に上がる事など滅多にないが、先日の見廻りの最中に見たものに昔の記憶が触発されたのか、バドミントンが出来ないなら、と何の後ろめたさもなくここに来る事を選択していた。土方に見つかった時の事を恐れ、大概の隊士はここを『避難場所』から外している。特に、今の様な冬場は確実と言っていいほどに人はいない。結果、いつでも屋根の上は独占出来る状態だった。風が冷たい日は辛いが今日はそれもなく、太陽が丁度南中しているこの時間帯には絶好の昼寝場所となるのを、山崎は知っていた。
「山崎いいぃっっ、いい加減にしやがれ出て来いコラアァッ」
再度怒声が響き、山崎はつい居る場所を忘れて「はいよっ」、身に染み付いた習慣で、大声で返事をしていた。
(あ、)
ばれなかっただろうか、言った後にはっと口元を押さえたが、そもそもここからの返事が土方に聞こえたはずがない。山崎はさっと躰を起こすと、軽く猫の様に背中を伸ばした。寝ていた躰をそうやって仕事用に起こすのが癖だった。
(ん?)
今日が非番だった事を唐突に、しかし漸く思い出し、山崎ははたと躰を伸ばしたまま止まった。
(別に仕事でも何でもないって事だよな、って事はまた煙草買って来いとか、そういう理不尽系の事じゃないの、もしかしなくてもさ、)
なら行かなくてもいいか、いなかった事にすればいいんだし。ごろんとまた瓦の上に躰を投げ出し、くるり、横になった。
「やーまーざーきーいぃぃぃ」
「ひいいいいいぃいいぃぃぃっ」
視線の先、屋根の端、そこにはぬっと首を突き出しこちらを睨む土方が居た。首から上だけが見え、その下の胴体は一切見えなかった為、中途半端に生首幽霊の様にも見えた。形相は正しく鬼の如し、稲山の真夏の夜の怪談百物語に友情出演出来そうだと、いつもとはまた異なる恐怖に痺れた頭で山崎は思った。
「テメェこんな所で何昼寝なんざしてやがるんだ、えェ!!? ここは立ち入り禁止だって言ったはずだろうがこら、そして今お前は俺の声が聞こえていながら無視しようとしやがったな!!!?」
「そそそそそんな滅相もないです副長!!!」
空しい弁明を口にしつつ、じりじりと屋根を上がって来る土方から、少しでも遠ざかるべく後ろに下がって行く。まるで猫に追い詰められた鼠の様だと内心泣きそうになった。
「あ、あの、副長、俺今日非番なんですけど!!!!」
「んな事ぁ知ってんだよ」
「知ってて何の用ですか、雑用なら他の人にやらせて下さいよ、俺とにかく今日は非番なんですから!! 非番非番ひーばーんーっ」
「非番非番うるせぇよテメぇっ、俺に楯突こうなんざ良い度胸じゃねぇか山崎、随分と図太くなったもんだなあァん!!?」
「非番エンジョイして何が悪いんすか、当然の権利でしょうが!? ジャイアニズム反対暴力反対!!! 人権侵害人権侵害だおまわりさああぁぁん!!!! ここに関白宣言どころかジャイアニズム宣言してる人がいまあああぁぁすっっっ!!!」
「上司に向かって上等じゃねぇかてめェェっ、そしてお前も俺も警察だ大声出さなくても目の前にいるだろうが正義の味方がよおおぉぉ!!!!」
「自分で自分を正義の味方とか言ってますちょっと危ない人ですおまわりさああぁぁ……ごふぅっっ」
屋根の上で意識を手放した山崎はそのまま放置されていた。気が付いて首だけを動かせば、土方はその横で自らが立ち入り禁止にしたというのにも拘らず一服していた。灰がぽとり、落ちそうになっているのにも気付かない様子で、「灰、落ちますよ」、そう言えば土方は少し眼を細めて山崎を一瞥し、胸のポケットから携帯用灰皿を出した。
「気ぃついたか」
「副長があんな事しなければずっと起きてましたよ俺は」
返された言葉に「可愛げねぇ野郎だな」、土方は毒づき、短くなった煙草を灰皿にぐりっと押し付けた。蹴られた腹を擦りながら、山崎はすっとその携帯用灰皿を盗み見た。今日の朝、山崎が中を捨てたばかりにも拘らず、随分な量の吸殻がそこにはあった。普段は部屋に置いてある物を使う土方だ、こんなに吸殻が溜まっているとなると、余程長い事気を失っていたのかと思ったが、すぐにそれはないと考え直す。空の、日の位置は多少傾いているものの、土方があれだけの量を吸い尽くす時間には全く足りなかった。
(なら、)
何か気に障る事でもあったのか、そう考え、すぐに自分の行動が思い浮かんだ。
(……俺の、所為だってんで1? いや、それにしちゃあ何か……)
妙だ、普段特別土方の事に敏いわけでもないが、その雰囲気が気になった。湿っぽいわけでもないが、どこかひんやりとしたものを含んだ、雨の奔りの様な薄い雲に似た空気をその身に纏い、土方は遠く軒並み連なる景色を見ながら一服していた。その横顔は、相も変わらない整ったもので。すぅっと通った鼻筋を吐き出された紫煙が掠っていく様を見て、場違いにも微かな嫉妬を覚える。好い男はどこまでも特権尽くしだ、自分の身を省みて思う。たとえ、こんな風に憂えた表情をしてみせても、絵になるのだから。
(ん、?)
憂える、そう何の考えもなしに飛び出た言葉を、反芻してみる。憂えた、表情。口だけを動かし、そうして改めて土方を見た。
(そうか、憂いだ)
先ほど自分を呼んでいた事と、何か関係があるのだろうか、山崎は口を開こうとした。
「……山崎ぃ、」
「っ、――はいよっ」
静かに、山崎が言葉を発するより僅かに早く、土方は視線を遠くに向けたまま呟く様に言った。
「お前、今新しく天人用にマンション建てられてるの知ってるか?」
「え、えぇ……」
先日の見廻りの際に見た光景を思い出す。高く高く、空を衝く様に聳え立つ重機の群れに、山崎は思わず空を仰いだ。黒くはなかったが、しかし逆光の所為で黒く見えたそれらは、ぬらりと光り、まるで空を犯す汚らしいものに見えた。聞こえない悲鳴が聞こえた気すらした。貫き、強欲に貪欲に空を貪る様な重機。蒼穹、大地とは違い誰の物でもないはずのそれが、天人の物になったかの様に感じられ、喪失感に似た小さな絶望が生まれた。空までもが、奪われていく。天人に。
今更の事だと、そう思おうとすればするほど、奪われた空を見上げてしまう自分がいて。少し見渡せば幾つもの聳え立つ建造物。天人が来る前にはなかった、そして、今はそれがなくてはこの国に住む人間は生活が成り立たなくなる者が大勢いる。その事実。自分もその中の一人だという事実。
高く、高く。聳えるは原罪の塔か。人間の罪の象徴か。
(この空は、)
もう、誰かの物でしかないのか。いっそ全てが崩れ去ってしまえば、もしくは、また武士の国に戻れるのだろうか。
(あぁ、)
傲慢か、強欲か、空までも、奪われていくと思う自分は。
「……俺ね、副長、」
ぽつり、土方ではなく遠くの連なる高い建造物に眼をやりながら言葉を零した。
高く、高く。貫くは空。
「アレを見た時に、奪われちまうって、そう思ったんですよ」
何を、と山崎は言わなかった。土方も聞かなかった。
「日が落ちていく間、赤い空にシルエットみたいに黒くクレーンとかボーリングのとかが見えて」
端が赤く、そこから徐々に朱、朱、暗くなり。浮かぶ線の山吹の雲の淵が紫に燃え、それを境に菫、藍の裾が広がり。影絵の様に視界に映ったそれらの重機は、空を犯す暴漢で、まるで空の赤は、流した血の色と思えた。泣いて抵抗する術もなくただただ蹂躙される空は、まるで自分達の、自分達の失われた誇りの様で。
――重機は、自分達の罪を。空は、自分達の失われた誇りを。
「あぁ、情けねぇ、悔しいって、」
空を仰ぐ。天は高く、雲は流れ、――しかし決して前の様には戻らない。見渡す限りの蒼穹は、鋤を入れられていくだけの存在となり、みっともない姿を山崎に曝していた。みっともない、自分達の誇り。眼を閉じ、今映った空を消し去る。シャットダウン。跡形もなく。あるのは瞼を微かに透ける薄い光。
刀を握る手も、それを振るう理由もあるけれど、守るものはいつだって自分達の臆病で、自分達の罪で。
失われた誇りは今も失われたまま。
「……空は、別に誰の物でもねぇよ」
土方の独白が耳に届いた。
「そうでしょうか? 俺にはそうは思えない」
空は、埋め尽くされている。何にか。具体的なものではなく、概念的に。塗り潰されている。塗り潰される事を良しとしてしまっている。手垢の付いた空は、既にもう誰かの、天人の物になっている。
あの時、空に聳える高い重機を見た時、確かに山崎は、空が誰の物でもなかった時代は既に過去なのだと、思い知らされた気がしたのだ。
「俺、悔しいです」
悔しいんです、繰り返した山崎は、「でも」、付け加えた。
「本当は、凄く寂しいだけなのかもしれません」
幼い頃には、未だ空には傍若無人な天人達の建造物が建っていなかった。空は、空で。幼い山崎には家も親もなかった。空も、山崎の物ではなかった。それでも、空は誰の物でもなかったから。
誰の物でもなかったから、自分の物でもいいのだろうかと。幼い、幼過ぎる自分はそう考え。何も持っていなかったから、家も親も兄弟も友達も。生きるのに精一杯でそれだけで。
「それが、外からやってきた奴等に奪われて、横取りされた、みたいな気がしているのかもしれません」
「おかしいって自分でも解ってるんですがね、」
最後、苦笑を交えて語った部下を、土方は黙って見た。自分が拾った少年は、その幼さを面影に残してはいたが、今はもう自分の仕事を任せられるほどに大人になった。それほど共に長い時間を過ごした実感はなかったが、不思議と近くにいさせる気になる理由を、土方は朧気ながらに知った。
「……屯所が出来た時、ここから空が高く見えてよ、それが好きで俺は何度もここに来てた」
「空が高くて、真っ青で、仰向けに寝てると重力に従って全身の細胞とかが背中の方に沈んでいって、」
「細胞、筋肉、神経、血液、水分、栄養、全部が全部、背中に堕ちていく」
訥々と、形のいい唇から言葉が紡がれていった。
「鈍い感覚で、意識さえも、引力に引っ張られて、見上げる空は矢鱈と広くて」
「あぁ、地球に生きてんだよな、って感じた」
「この地上を離れてったら、俺は生きていけねぇ、そう思えた」
「たとえ永遠に縛られているんだとしても、この引力は心地が良いってよ」
「……」
「……山崎、」
「……なん、ですか」
「たとえ、この国の空が、政府が、天人共に蹂躙されいい様ににされていてもよ」
「お前も、俺も、空じゃ生きていけねぇんだ」
それだけは、覚えておけ。
言い終わると同時に山崎の首根を掴むと、強引に自分の唇と山崎のそれをぶつける様に重ねた。山崎は眼を見開き、そして伏せた。上唇を食む様に挟まれ、甘噛みされる。尖らせた舌で土方の唇を押し戻せば、今度はその舌を柔らかく噛まれ。仔犬がじゃれる様なキスを暫く続けた後、どちらともなく離れた。
「……先に下降りてっからな、お前もすぐに降りて来いよ」
低い声で土方は言い放つと、立ち上がった。この声で、山崎は思った。この声で耳元で甘く囁かれたら、女はどんなに夢心地なのだろう。自分は女ではないけれど、それでも土方の声は毒の様に躰を犯す。土方自身は意識していないのかもしれないが――空を犯すあの黒々とした重機の様に、強欲に貪欲に、罪の意識の欠片もなく人の心を犯していくのだ。
「……副長、」
「何だよ」
「何か、俺に用事あったんじゃないですか」
土方の唇が当たった場所を人差し指でつぅとなぞりながら、しかし土方の方は見ずに聞いた。――空は遠く、既にこの手にはない。
「……さぁ、んなの忘れちまったな」
山崎の問いをはぐらかし、背を向ける。その土方の背中に、再度「副長」、呼びかけた。真っ直ぐに、背筋を伸ばし。
「俺は、俺の『物』を奪われるのを悔しいとか寂しいとか、そう思います。けれど、」
「俺の命は、貴方に預けていますから」
貴方に奪われるのなら、本望です。
何の躊躇いも見せず凛とした声で言い放った山崎の方を、矢張り見ないままに、土方は小さく「莫迦野郎が」、呟いて下に降りていった。