狂言綺語
「こりゃあ一雨くんな」
屯所内、廊下の真ん中で歩を止める。
初夏の夕刻にも拘らず、うねる様な黒の空に飛ぶ同じ色の乱れる雲。
騒ぎ、乱れ、狂った様に暗色の誰彼時を踊る雲。
狂雲にも似た空の模様が、記憶の襞に何故か引っ掛かり、既視感を覚え。
(――……あぁ、)
あんたは覚えているだろうか。
あの日の事を。
嵐の日。雨の音。花を腐し、俺達を腐し、それでも止まない雨の音。
鼓膜に記憶に心の臓に、媚びる様にこびりつき。
あんたの声言葉吐息心音、喧しい位に俺のそれが被り。
忘れてはいないだろうか。
頼むから、忘れていてくれ。
雨が冷たかった。
矢よりも尤強靭な、槍の様に降り続ける雨が、服を濡らし肌を濡らし、シャツがまとわりついてくる感覚が気持ち悪く。
俺は何でこんな所に居るんだろうとそう考えながら、惰性のままに眼の前に居る男の広い肩に顔を埋めた。
何度と無くこの肩には凭れた。俺とあんたの硬い骨がぶつかるごつりとした感じが好きで、鎖骨を突くとすぐに逃げるあんたが面白くて。そういう取り留めの無い事ばかりが頭を駆け回る。自分で収拾出来ない、暴れ馬の様な記憶の氾濫。
「トシ、」
(あぁ、)
吐かれる耳の辺りを擽るその息よりも、自分の名を呼ぶ強張った声なんかよりも、ただただあんたの僅かに残る温かさに安心する。
――貫くばかりの雨の槍に、躰の中心が悲鳴を上げていたから。
「言ってくれないか、」
大して距離の無い空気を伝って言葉が届く。近藤さんはその筋張った豆だらけの硬い指で俺のシャツを握り、
「今なら、聞いてやれる」
一直線に降る、花を打ち草を刺し木を刻み地を穿つ、咎人の雨の音ばかりが耳に響き、
一瞬の断絶が連なり、増大し、反響し、その中で。
どうしてだろうか。
「だから、言ってくれ」
あんたの声だけは、こんなにも鮮明だ。
――槍は鋭く。
地面に突き刺さっては破裂する。
破片が足元に散って、余計濡れる。――もう、どれだけ濡れても変わらないけど。
垂直落下着弾破裂。跡には欠片も残らない残さない、それに羨望を抱きかけ。
――こんな事にすら意識を向ける自分はとんでもなく切羽詰っているのだろうと。
「トシ、」
他人事の様に思い。
他人事の様に。
――本当に、他人事だったら。
その声も眼も躰も何もかも、
あんたじゃない、他人だったら。
「俺は、お前を殺したくなんか無いんだ」
お前の、返事をくれ。
俺よりでかい躰とのその距離をぐっと胸倉を引っ掴んで無くす、
唇を擦り合わせる様にして押し付ける様にして合わす、
離して腕を突っ撥ねてまた彼と距離を置き。
温かい躰が離れるのが寂しかったけれども仕方ないと強引に割り切った。
……雨は俺達を貫いては破裂して、
「もう少し、自分は未だ狂ってると思ってたんだけどよ、」
「狂ってるって」
いっそこの身を裂いて欲しかった。
この思いごと、全てを、全てを。この躰も心も声も何もかも何もかも――魂までも原型を留めない程に。
「トシ、」
「俺は、狂っているからこそ、俺だったのに」
「……狂っているからこそ、」
だってそうだろう俺はこんな感情抱いちゃいけないんだこんな感情いらないんだこんなもんあったって何の役にも立ちはしないんだ俺は俺の道の真ん中に立つ奴は斬り捨て斬り捨てて、そうして、
そうして、
強く、強く。
哭く様に刀を握り、壊れた様に斬り伏せて、――狂いながら血飛沫の中で、
赤く赫く視界を染める世界を染める、命の色をした水は海になり、
『助けて』
俺は一人の天人を殺そうと。
『助けて』
殺そうとして。
『命だけは』
刀を向けたのに。
そいつは怯え震え命を乞うていたけれど俺の知った事では無く、寧ろ俺はその三流芝居を見て殺す事を躊躇い無く行おうとしたのだけれど。
……どうして、どうして、
真選組。
真選組。
真選組真選組真選組
『トシ』
真選組。
『トシ』
『トシ』
どうしてだか、
あんたの顔が浮かんだ。
お人好しの大馬鹿野郎の面。
近藤さん、あんたの顔だ。
「俺は、近藤さん、殺っちゃあいない」
あいつが自分で、折れて落ちて畳に突き刺さったままの刃に倒れた。そして死んだ。それだけだ。
「あいつは、人間の子供を弄んだ挙句、戯れに殺した」
泣いていた。子供を抱いた母親が。若くは無い。攘夷戦争で夫を亡くしたと聞いていた。骨と皮だけの様な肉の削がれたその腕で、白粉をはたかれ、唇に紅を引かれた童女を抱いていた。その化粧は世辞にも上手いとは言えず、子供が戯れに塗った様な滑稽さを伴い、そして母親の腕の細さ貧しさに似つかわしくない真緋の紅葉文様の上等の着物を着ていた。――真緋からは、真緋を新たに染め変えていく深い赫からは、嗅ぎ慣れた臭いもした。錆びた鉄の、血の、臭い。
――殺しか。頭を掠めた言葉は、そのまま流れて女と童女の姿と共に葬り去られるはずだった。
我が子の骸を抱いた女が泣き。髪の乱れた、三十路半ば位。下手な人形の様に化粧された童女を抱き。慟哭を通り越した、乾いた咽喉からは嗄れた、ひゅうひゅうと細く息が漏れ、――虚ろに支配された、その落ち窪んだ眼が自分を見るまでは。
『いぬ』
女の口は、声にならないままに確かにそう、動いた。
「俺は、殺そうとした、」
その童女は天人に連れ去られ、結果、骸となって帰ってきた。それで十分だった。
その天人の特定、居場所、警備の有無、「真選組」の名を使って独自に調べ上げた。
女に「犬」と呼ばれた事が赦せなかった訳ではない。ただ、――そう、
自分の中で、ただ単純に殺す事の大義を得た様な錯覚に襲われ、
「あのガキの敵討ちになるって、」
そうして従ったまでだった。
「それでも、――近藤さん、俺は、」
あの赫を見てしまったからか、あの虚ろを見てしまったからか、
狂いながら血の海に身を沈める、その乾き餓えた悦楽を、得ようと。
「――鈍らになっちまったみてぇだ」
そうして選んでしまった。
「きっと、――あんたに、逢わなけりゃ良かったんだ」
殺せば、多分戻れた、
そうすれば、また狂った、狂えた、
そうすれば、未だ狂っていられたのに、
「……トシ、」
選んだんだ、俺は。
「どんなに楽だったか知れねぇよ」
――その悦楽をも上回る、あんたの側に居る事の心地良さを。
「……有難う」
……その瞬間だけ、雨音は聞こえなかった。
「トシ、お前何こんな所でたそがれてんだ? ――も、もしかして恋でも患ってるのかトシよ!!!!」
嫌になる位に聞き慣れたその声に、俺は振り返る。
「何だ何だ相手は誰だ?? 今度紹介してくれるよな当然――いや、俺は今でもお妙さん一筋愛情一本だからな!!!? うっかり何時も何時も菊の花でスキキライ占っちゃう位にお妙さん命ラブニードウォントミスお妙さんだか……」
「黙っとけゴリラーマン。大体菊の花って仏花じゃねぇかよ」
罰当たりな人だなあんたも。そう言い捨ててさっさと自室に戻ろうと踵を返す。丁度昔の青かった頃を思い出していただけに、本人に会いたくはなかった。
とんでもなく青二才だった自分。
(銀八先生に出れちまうよ、おい)
近藤さんは俺を真選組除名処分にはしなかった。切腹も当然の身には、謹慎も何も無かったのが安堵よりも不安の方が勝り、俺は近藤さんを問い詰めた。
『――ま、気にすんな』
『だって、もうお前、大丈夫だろ?』
それで終わった。天人の件は、結局事故という形で決着がついた。あちらさんも脛に疵でも持っていたのだろう、そうなった以上、もうどんなに口を割らせようとしても無理だと知っていた。単純明快な、それでいて決して開ける事が出来ない。面倒な男だ。
「――なぁ、トシ、」
その面倒な男に呼び止められて、不承不承振り返る。相も変わらず見慣れたお人好しの、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「何だよ」
「こういう、雨降り前の鈍らの空はお前には似合わんな」
「どっちかってぇと、夕紅の空が似合うぞ。真っ赤で、空が焼かれている様な」
だから、惚れた女子を誘う時は赤が綺麗な夕焼け時が良いぞ。男度3割り増しでアップだ!!! 俺のアドヴァイスは的を射ているって評判なんだぞ!!
――近藤さんは悪気0パーセントで言い切った。……だからこの人は面倒なんだ。
(これで総悟だったら刀抜いて斬りかかってるよ俺は)
「あんたのアドヴァイス聞くのは山崎位だろうが」
一刀両断に斬り捨てれば「トシ……最近冷たいぞ……怒りっぽいぞ……十円ハゲ出来るぞ……」――その尻に前蹴りを見舞った。
「酷い、トシ酷い!! 痔になったらどうしてくれる!!」
喚く近藤さんに背を向けて、今度こそ自室に戻る。
(あんたは全く、何時も俺を不意打ちするんだな)
苦笑するしかない。あの底抜けのお人好しは、底抜けだけあって思いもがけない方向から攻める事を無意識ながらに知っていて、それは俺には無い天性という奴だ。それが吉と出るか凶と出るかは場合に拠るが、大抵は良い方向に転がってくれる――女関係を除いて。
そういう所に俺も総悟も、真選組の奴等は――いや、恐らく逆だ。あの人が居て、あの人に惚れている奴等が真選組と名乗っている。あの人――近藤さんありきで始まる、それが真選組なんだろう。
(隊員全員が局長ファンな訳か……)
そこまで考えてから、余りに衆道な世界が浮かび、少々気持ち悪くなる。俺の思考回路は最近本当におかしくなっているようだ。
(……近藤さん、)
昔を、再び思い出す。
あの時、槍の様な雨の中。
花を腐す雨は、同時に俺達をも腐らせようとしていて。
『……何が、有難うなんだよ近藤さん。意味が解らねぇよ』
『あのな、トシ、俺は、……嬉しいんだ』
血の海に浸かる事に愉悦を見出していた俺を俺は知っていて。
赫に染まる事を心の何処かで何時も求めていて。
何が嬉しいのかも何も教えてはくれなかった。
ただ近藤さんがそう言った時の、何時もとは違う、切ない様な嬉しい様な、一つの顔の上で複数の感情を同時に表現する事は出来るのか、そんな事を思わせた表情を覚えている。
鮮明に、鮮明に。褪せる事無く。
――俺達は、あの場で腐って堕ちる事も無く。
『夕紅の空が似合うぞ。真っ赤で、空が焼かれている様な』
「赤は赤でも、赫でなくて紅の方、ね……」
下らない、戯言を呟く。
人の命の色ではなく、それは空の色。
近藤さん、
俺は、もう狂っては居ないよ。
でも、
あんたが居なくなったら、俺はきっとまた壊れてしまう。
あの雨に貫かれて、ただ、赫い海の中で狂い腐っていくんだ。